永島慎二
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俳優の「長島慎治」とは別人です。
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永島 慎二
本名永島 眞一
生誕 (1937-07-08) 1937年7月8日
東京府東京市滝野川区
(現:東京都北区
死没 (2005-06-10) 2005年6月10日(67歳没)
東京都
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1952年 - 1980年代
ジャンル劇画
代表作『フーテン』
漫画家残酷物語
柔道一直線』(原作:梶原一騎) 他
受賞第17回小学館漫画賞1972年
第3回日本漫画家協会賞優秀賞(1974年
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永島 慎二(ながしま しんじ、1937年7月8日 - 2005年6月10日)は、日本漫画家。本名:永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。東京市出身。愛称はダンさん[注釈 1]。長男はギタリスト永島志基
生涯

東京市滝野川区生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれる。小学校3年の頃から漫画家になることを志望。目黒区立第一中学校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある[1]。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた[1]

同校を2年で中退[注釈 2]後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再会した目黒区立第一中学校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。

1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫画家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった[注釈 3]。初夏のその月のうちに“馬小屋の二階”を引き払い、実家に凱旋したが[注釈 4]、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。

1953年若木書房に原稿を持ち込むようになり、出入りしていたつげ義春遠藤政治と親交する。この頃から漫画家の集いに顔を出すようになり、新漫画党のメンバーや、辰巳ヨシヒロさいとう・たかをら「劇画工房」のメンバーらと交友を広げる。1956年赤塚不二夫石ノ森章太郎鈴木光明らと同人グループ・かこう会を結成。手塚治虫の面識を得て、アシスタントを一時期務める。1957年、杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。

1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫画誌に数々の作品を発表し[注釈 5]、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇画風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿フーテン生活を経験。のちにその体験を題材にした漫画「フーテン」を発表している。

1964年から1966年まで虫プロダクションに所属、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を担当した。

1967年より梶原一騎原作による『柔道一直線』を連載開始。TVドラマ化される。だが、1970年、作家性の違いにより連載を降板。

1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小学館漫画賞受賞。1973年テレビアニメ「ワンサくん」(虫プロダクション)のキャラクターデザイン。1974年、『漫画のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞受賞。

1980年11月16日大麻不法所持で逮捕[2]。1980年代以降、漫画家としては半隠居状態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、将棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの会に参加したりなどしていた。将棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルパイプを愛用していたが、自作のパイプも制作していた。

2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳没)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。
人物・作風

本名は永島眞一だが出版社の誤植で慎二となり、その後は永島慎二のペンネームを使用することになった。

貸本漫画家時代は、さいとう・たかをに次いで漫画家志望者に対する影響力があった。さいとうとは作風も漫画観も違うがとても仲が良く、『漫画家残酷物語』にはモデルにしたキャラクターが頻繁に登場する。

同時代に『ガロ』で作品を発表した同年齢の
つげ義春とは16歳の頃からの付き合いで[3]、研究者の間では何かと比較される事が多かった。「互いをライバル視していた」と親交のあった遠藤政治は証言している。

永島の漫画作品では、しばしば青春をテーマに描かれる作品が多く見られる(『漫画家残酷物語』や『青春裁判』など)。


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