永六輔
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週刊雑貨より(1966年
誕生永 孝雄[1](えい たかお)
(1933-04-10) 1933年4月10日[2]
日本東京府東京市浅草区
(現・東京都台東区
死没 (2016-07-07) 2016年7月7日(83歳没)
日本・東京都渋谷区
職業放送作家
タレント
作詞家
最終学歴早稲田大学第二文学部史学科中退[2]
代表作『大往生』(1994年)
主な受賞歴都民文化栄誉章(1995年)[3]
菊池寛賞(2000年)
ギャラクシー賞45周年記念賞(2008年)
毎日芸術賞特別賞(2013年)
配偶者あり(1955年?)
子供永千絵(長女)
永麻理(次女)
公式サイトhttps://www.rokusuke-ei.com/
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永 六輔(えい ろくすけ、本名:永 孝雄(えい たかお)、1933年昭和8年)4月10日[2] - 2016年平成28年)7月7日[4])は、日本放送作家作詞家

テレビラジオなどを中心に活躍。軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集めた。1961年7月に坂本九により初演され、その後世界中でヒットしたポップソング上を向いて歩こう』の作詞者として知られる[5]。また短く簡単な言葉で物事の本質を突く、短文の名人としても知られ、著作も多い。『大往生』は200万部を超える大ベストセラーとなった[6]

“旅の坊主”、“ラジオ屋”、“テレビ乞食”、“遊芸渡世人”、“男のおばあさん”などを自称。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク

長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー、麻理の長男、岡ア育之介は俳優、脚本家、演出家。麻理の次男は「大遺言?祖父・永六輔の今を生きる36の言葉」(小学館刊)の著者拓実[7][8]。また、藤本義一とは遠戚である。
略歴
生い立ち

1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を務めていた永忠順(1900年 - 1991年[9])の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖にもつ在日本外国人17代目と自称[10]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[10]。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。
学生時代以降

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。

この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団レビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[11]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学[12]。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部を1952年に中退[2][13]
放送作家として

日本でテレビジョン放送が始まる前の実験放送からテレビに関わっており、数々の番組の作・構成を手がけた「放送作家」の先駆者といえる。日本のテレビ草創期を語るときに欠くことのできない存在である。

また、のちには自身も出演者としてテレビ・ラジオの多くの番組を持つようになる。

かくして20代前半から、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[14]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。

ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[15]

1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落とし、しかも永を捜しにデモ現場に駆け付けた日本テレビの担当者の「安保と番組、どっちが大事なんだ!」との問いに「安保です」と答えたために番組を降ろされている[16][17]

1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。

1961年に NHKで始まった音楽バラエティ番組「夢であいましょう」の作・構成を手がけ、音楽とコントを取り合わせて当時としては大変垢抜けた画期的な番組として人気を博した。この番組からは渥美清、坂本九、黒柳徹子、初代ジャニーズ、E・H・エリックといった多くの人気者を輩出している。

1970年には読売テレビで「遠くへ行きたい」が始まる。タイトルは永と中村八大によるヒット曲「遠くへ行きたい」からとったもので番組開始当初は永六輔が毎週旅をして出演、テレビの旅番組の先駆けとなった。

1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例区で出馬したが落選。その後は選挙に立候補せず、政治活動から撤退している。1985年、次女・麻理がアナウンサーとしてフジテレビに入社(1993年、結婚のため退職)。

1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生死に関するさまざまな名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。ほかに、多方面でのエッセイの著作が多数ある。1995年に都民文化栄誉章を受章。2000年に全業績で菊池寛賞を受賞。

2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永・矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」にかかわった。

2008年6月、第45回ギャラクシー賞で、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞[18]


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