永保寺庭園
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永保寺
永保寺庭園(国の名勝
(2020年(令和2年)11月)
所在地岐阜県多治見市虎渓山町1-40
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度20分48秒 東経137度7分51秒 / 北緯35.34667度 東経137.13083度 / 35.34667; 137.13083座標: 北緯35度20分48秒 東経137度7分51秒 / 北緯35.34667度 東経137.13083度 / 35.34667; 137.13083
山号虎渓山
宗旨臨済宗
宗派南禅寺派
本尊聖観世音菩薩
創建年正和2年(1313年
開基夢窓疎石(開創)
元翁本元(開山
正式名虎渓山永保禅寺(虎渓山永保寺)
文化財観音堂、開山堂国宝
絹本著色千手観音図(重要文化財
庭園(名勝)
法人番号5200005008204
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永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派寺院山号は虎渓山(こけいざん)。

雲水修行道場僧堂)である虎渓山専門道場を併設している。
歴史

1295年頃、鎌倉の地で夢窓疎石と元翁本元(佛徳禅師)が修行し、また土岐頼貞との接点が生まれた。

1311年悟後の修行のため甲斐の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲していた夢窓疎石は、

正和元年(1312年)元翁本元とともに元翁の故郷である三河の大徳寺に逗留した。

正和2年(1313年)土岐頼貞の招きにより、頼貞の父・土岐光定(1281年4月8日没)の三十三回忌を定林寺で厳修した。

その後、土岐頼貞の別邸または砦があったと推察される長瀬山の麓に、元翁本元(佛徳禅師)・不二■門・祖用ら7?8人と伴に庵を結んだ。

文化3年(1806年)刊の『虎渓山略縁起一人案内』によれば、正和2年(1313年)6月18日に長瀬山の麓を目指していた夢窓一行が道に迷い、白馬に乗った女性に道を尋ねたが返事が無かった。

そこで夢窓は「空蝉(うつせみ)の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」と歌を詠んだ。すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、

正和3年(1314年)に水月場(観音堂、国宝)を建立した。

当初「古渓」と称していたが、後に中国廬山の虎渓(虎溪(中国語版))に因み「虎溪山(虎渓山)」と称するようになった。

廬山虎渓の風致が当地に似ているとする記述も見られるが、夢窓が渡航した記録は無く、むしろ鎌倉建長寺の中国僧一山一寧のもとで修行していたことにより、当時の廬山での禅修行の風致を虎渓山に求めたものと推察される。

1317年に夢窓は京都の北山に隠棲、更に土佐へ移り、1319年には鎌倉へ、1325年に後醍醐天皇の命により南禅寺第9世として南禅寺に住持することとなる。一方、元翁本元は夢窓の去った虎渓の地を守り暫く留まっていたが、1329年には南禅寺第11世として南禅寺に住持した。

元翁本元が南禅寺に住持している時、後醍醐天皇の皇子世良親王の帰依を受けていたが、親王亡き後、後醍醐天皇が親王の御所を臨川寺とし、元翁本元を開山として迎えることとなった。

この時点では虎渓山開山は夢窓疎石であり、臨川寺開山が元翁本元であるが、南北朝争乱により後醍醐天皇は隠岐に流され、元翁と臨川寺は外護者を失うこととなり、元徳3年(1331年)元翁は南禅寺を去り、翌正慶元年(1332年)に没した。

後醍醐天皇は1333年に京都に戻り、夢窓疎石を再び南禅寺の住持に迎えるとともに、改めて臨川寺の開山とした。これにより、当初夢窓を開山とした虎渓山永保寺は夢窓疎石を開創とし、元翁本元を開山とするようになった。

後醍醐天皇による建武の新政足利尊氏によりわずか2年で失敗に終わり、光明天皇が擁立されて南北朝となり、

暦応元年(1338年)に足利尊氏が征夷大将軍となった。

永保寺は暦応2年(1339年)に北朝の光明天皇勅願所とされ、経済的基盤が確立するとともに、開山元翁本元の門派が一流相続する独立的存在の門徒寺とされた。

永保寺の歴代は3世の果山正位以後、14世の雪庭永立(1554年没)までが塔頭の保寿院世代と同一であり、その後320年間にわたり塔頭寺院による輪番で護持されてきた。

天保元年(1830年)、開山仏徳禅師500年遠諱の際、春応禅悦により僧堂が開かれるが、明治初めの社寺上知令により衰退した。

明治8年(1879年)永保寺独住1世として保寿院24世の尠F惠薫が任命され、

明治14年(1881年)開山仏徳禅師550年遠諱の際に、柏樹軒潭海玄昌を永保寺住持に迎え僧堂を再開した。

これ以後、僧堂師家が永保寺住職を務めている。
境内.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}観音堂
(2010年(平成22年)2月)開山堂
(2010年(平成22年)2月)
観音堂(国宝)

本堂である観音堂は、正和3年(1314年)の創建である。唐様建築の特徴と、平安時代から引き継いだ和様の折衷様式であり、

一重裳階(もこし)付きの方五間重層屋根入母屋造檜皮葺の仏殿である。「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩坐像(毎年3月15日公開)が安置されている。

身舎は方三間(間口、奥行ともに柱間が3間)で、その周囲に裳階を設けている。一重裳階付の外観、軒反りが強い屋根の形状、桟唐戸、柱間上方の弓欄間など禅宗様の要素が強い一方で、以下のような和様の要素も混在する。

禅宗様では床は石敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構造材をそのまま見せる)とする例が多いが、この建物では床は板床、天井は板張りの鏡天井としている。柱上の組物は、禅宗様では複雑な「三手先」とする例が多いが、本建物では身舎が「出組」、裳階が「出三斗」という、外側への出の少ない簡素なものを用いている。

禅宗様では「詰組」といって、柱と柱の間にも密に組物を配するのが通例だが、本建物の組物は柱の上のみに配置する。裳階は正面側一間通りを吹き放し(柱間に壁や扉を入れず開放とする)とするが、これも禅宗様仏堂としては異例である。

以上のように、本建物は外観は禅宗様を基調としつつ、細部には和様の要素が濃い特異な建築である。軒裏は垂木を見せない「板軒」とするのも珍しい手法である。[1]

昭和27年(1952年)に国宝に指定された。
開山堂(国宝)

南北朝時代文和元年(1352年)の創建で、代表的な唐様建築で入母屋造檜皮葺き。永保寺開創の夢窓国師および開山仏徳禅師の頂相が安置されている。

祠堂と礼堂と合の間の三棟が併わされた建物で、外陣方三間・単層屋根入母屋・檜皮葺・内陣桁行三間・梁間三間・重層屋根・入母屋・檜皮葺で後の八棟造の先駆をなすもので、霊廟造の基礎となったものである。

方一間(間口、奥行ともに柱間が1間)裳階付きの祠堂の前に方三間の昭堂(外陣、礼堂)が建ち、これらを相の間でつないで1棟とする特異な形式である。

昭堂の奥に前述の祖師の頂相を安置し、奥の祠堂には開山の元翁本元の墓塔である石造宝篋印塔を安置している。宝篋印塔は昭和30年(1955年)に国宝に指定された。

昭堂は三手先の組物を詰組(柱と柱の間にも密に組物を配する)とし、垂木を扇垂木(隅の垂木を放射状に配置する)とし、堂内は石敷きの土間に化粧屋根裏とするなど、本格的な禅宗様の意匠になる。[2]

観音堂と共に国宝である。本尊の地蔵菩薩は、六角堂に安置されている。
六角堂

四尺六角であるが、創建時期は不明。本尊の地蔵菩薩は鎌倉時代の作である。
文化財
国宝

観音堂
[3] ? 解説は前出。

開山堂 附:石造宝篋印塔[4] ? 解説は前出。

重要文化財

絹本著色千手観音図 宋

絹本画で、長さ6尺余、幅3尺5寸、仏身3尺5寸で描かれて着色されている。中国の呉道玄(呉道子)による大作で、国の重要指定文化財となっている。


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