永井道明
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永井 道明東京女子高等師範学校教授時代(1914年/45歳)
人物情報
全名永井 道明
生誕 (1869-01-30) 1869年1月30日
日本常陸国茨城郡水戸下市蔵前[1]
(現・茨城県水戸市城東[2]
死没 (1950-12-13) 1950年12月13日(81歳没)
日本東京都豊島区駒込[3]
老衰[4]
居住 日本東京都豊島区駒込[3]
国籍 日本
出身校高等師範学校博物科[5]
配偶者政子[6]
両親道敏[7]
学問
時代明治 - 昭和
活動地域 日本
学派スウェーデン体操
研究分野体育学
研究機関東京高等師範学校東京女子高等師範学校
称号正五位[8]
特筆すべき概念国民体育論
主な業績学校体操教授要目の制定[9]
主要な作品『学校体操要義』[10]
主な受賞歴文部大臣体育功労者表彰(1932年[11]
厚生大臣体育功労者表彰(1940年[12]
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永井 道明(ながい どうめい(みちあき)[注 1]明治元年12月18日1869年1月30日) - 1950年昭和25年)12月13日)は、日本の体育指導者・教育者

スウェーデン体操を軸とした『学校体操教授要目』の制定に尽力することで教科としての体操の確立と発展に寄与し、体育教師の地位向上に貢献したことから、日本の体操の父と称される[9]。また長方形コートで行うドッジボールを日本に伝え、日本独自のルールを取り入れた人物でもある[19]

道明が取りまとめた『学校体操教授要目』は「学校体育指導要綱」を経て「学習指導要領体育編」へとつながっていく[20]。また道明が普及させた規律訓練的な身体と精神性は、学校体育の現場で、整列・号令・姿勢・統一的な動きなどの形で現代の日本に残存している[21]
経歴
出自と小中学校時代(1869-1886)

明治元年12月18日(グレゴリオ暦:1869年1月30日)、常陸国茨城郡水戸城下の下市蔵前(現・茨城県水戸市城東[2])にて永井道敏の次男として出生した[22]。永井家は水戸藩であり、祖父・政介と父・道敏は藩校弘道館師範を務めていた[7]。政介は藤田東湖いとこの関係であり、武道の達人であった縁から吉田松陰が訪ねて来てしばらく自宅に滞在させていた[23]。姉の夫は水戸藩士吉成又右衛門の孫慎之允である[24]。こうした「名門」の家柄ながら、道明は兄弟姉妹が10人いたため裕福な生活を送ることはできず、幼少期は虚弱体質であったという[1]

1876年(明治9年)、下市小学校(現・水戸市立浜田小学校[25])に入学する[26]。父の那珂郡大宮警察署への転勤に伴い、1878年(明治11年)に大宮小学校(現・常陸大宮市立大宮小学校)へ転校するが、翌1879年(明治12年)に下市小へ戻り、1882年(明治15年)に卒業した[24]。当時の教育課程ではすでに「体術」・「体操」の名で体育の授業が行われており、道明は鬼ごっこ竹馬凧揚げこま回し相撲などをしたと述懐している[26]。特に大宮小時代によくやった竹登りと、水府流の古式泳法を習っていたことから水泳が得意であった[26]

下市小を卒業した後は、茨城中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)へ進学した[27]。自宅から茨城中までは坂道を含めて約1里(≒3.9 km)ほどあり、これを全速力で駆け抜けて学友や先生を追い越すのが楽しみであり、そうしているうちに心身が鍛錬されたという[28]。茨城中ではジョージ・アダムス・リーランドに師事した星野久成[注 2]が担当した学校体操に傾倒し、アレイ棍棒を自作して自宅でも鍛錬に励んだ[31]。その甲斐あって、体操の成績は100点満点で、運動会では優等賞を獲得した[32]。他方で1884年(明治17年)に蹴球に熱中するあまり平行棒で頭部を強打し6針縫う怪我を負い、後遺症疼痛1897年(明治30年)頃まで悩まされることになった[33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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