氷室(ひむろ、ひょうしつ、英語:ice house)とは、氷や雪を貯蔵することで冷温貯蔵庫として機能する専用施設のこと。古代より世界各地で利用されてきた蓄熱施設である。電気機器による冷蔵や冷房が普及した現代では激減したものの、節電や酒・食品の熟成、文化的な行事などを目的に、気候により氷雪が溶けて無くなってしまう高温の時季がある地域や一年を通して氷雪が存在しない地域で利用され続けている。 掘った穴と敷き詰め包み込むための藁だけでできたものや、氷雪の上に断熱材(藁、断熱シートなど)をかぶせるだけのものもある。このようなタイプは日本では雪蔵(ゆきくら、ゆきぐら)あるいは雪中貯蔵庫(せっちゅうちょぞうこ)などと呼ばれる。この他に、春の到来による気温上昇や雨水の影響をより受けにくい洞窟や横穴、さらに恒久的使用に耐える石造りやドームなどで構築された近代的なアイスハウスまで様々な様式がある。いずれにしても伝統的土木技術によって建造あるいは設置されるものであり[注釈 1]、冷蔵庫(機械式冷温貯蔵庫)が発明される以前は現在よりも一般的な冷温施設であった。 日本の「雪蔵」「雪室」は、酒の貯蔵によく用いられている[1]。この他に生鮮食品を含む食品の保存のほか、氷雪そのものが納涼
構造
氷室は英語ではアイスハウスとよばれ、イギリス(イングランドやスコットランド)、アメリカ合衆国、イタリア、ペルシアなどにも存在している[注釈 2]。 日本においても、春?秋に製氷する技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要があった。正確な記録は残されていないが、洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建てて覆い、保冷したとされる。氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。このように天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、長らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。 歴史的には『日本書紀』仁徳天皇62年条に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ:現在の奈良県天理市福住町)へ狩りに出掛けたとき、光るものを発見したとの記述が最初の登場とされる。奈良時代の長屋王宅跡から発掘された木簡には「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっている[注釈 3]。 『日本書紀』の孝徳天皇紀に氷連(むらじ)という姓(かばね)が登場し、朝廷のために氷室を管理した職が存在したことがうかがえる。例えば、朝廷の要職を占めた家の一つ賀茂県主氏(主に賀茂神社の神官を輩出した、亦元
日本の氷室
律令制においては氷室、製氷職は、宮内省主水司に属した。その後も氷室とそれを管理する職は各時代において存在し、明治時代になって消滅した。
北陸地方をみるに、江戸時代から毎年6月1日(旧暦)に合わせて加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあったが、明治時代になると、天然氷が一般に販売されるようになり、大正時代にかけ、冷蔵用の需要が増加したため、北陸各地に新たな雪室が作られるようになった。他方で、明治30年代から機械氷が天然氷を代替するようになり、冷凍施設なども製造されるようになったため、昭和初期には、徐々に雪室は廃止されていった。そして、戦後の食品衛生法による規制強化、昭和30年代からの電気冷蔵庫の普及によって、昭和37年ころには、ほぼ完全に雪室は消滅した。[2]
氷室を題材・題名とした能の演目がある。脇能物の荒神物のひとつ。 平安時代中期成立の『延喜式』には、次の10ヶ所の氷室が記載されている[3][4]。いずれも宮内省主水司の所管であった[4]。 なお、後の天長8年(831年)8月、山城国・河内国にはそれぞれ氷室3宇が加え置かれた[4][5]。 平城京では春日山に氷室が置かれ、宮中への献氷の勅祭を行った。
延喜式の記載
大和国山辺郡 都介氷室(闘鶏・都祁<つげ>) (奈良県天理市福住町)『日本書紀』仁徳天皇62年条の「闘鶏氷室」に同じ。
山城国葛野郡 徳岡氷室 (京都府京都市右京区御室)
山城国愛宕郡 小野氷室 (京都府京都市左京区上高野氷室山)
山城国愛宕郡 栗栖野氷室(くるすの) (京都府京都市北区西賀茂氷室町) → 氷室 (京都市北区西賀茂)
山城国愛宕郡 土坂氷室(長坂) (京都府京都市北区西賀茂西氷室町) → 氷室 (京都市北区西賀茂)
山城国愛宕郡 賢木原氷室 (京都府京都市西京区の樫原地域)
山城国愛宕郡 石前氷室(いわさき) (京都府京都市北区衣笠氷室町)
河内国讃良郡 讃良氷室 (大阪府四條畷市南野の室池)
近江国志賀郡 部花氷室(竜花) (滋賀県大津市上竜華町・下竜華町)
丹後国桑田郡 池辺氷室 (京都府南丹市八木町神吉) → 幡日佐神社
氷室の社