水野錬太郎
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日本政治家水野錬太郎みずの れんたろう

生年月日1868年2月3日
慶応4年1月10日
幕末維新
江戸幕府 明治政府
出生地 日本 江戸浅草鳥越町(現在の台東区鳥越
没年月日 (1949-11-25) 1949年11月25日(81歳没)
出身校帝国大学法科大学
所属政党交友倶楽部
称号正三位
勲一等旭日桐花大綬章
第36代文部大臣
内閣田中義一内閣
在任期間1927年6月2日 - 1928年5月25日
第31代内務大臣
内閣寺内内閣
在任期間1918年4月23日 - 1918年9月29日
第33代内務大臣
内閣加藤友三郎内閣
在任期間1922年6月12日 - 1923年9月2日
第35代内務大臣
内閣清浦内閣
在任期間1924年1月7日 - 1924年6月11日
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1912年12月5日 - 1946年1月11日[1]
その他の職歴
朝鮮総督府政務総監
1919年8月12日 - 1922年6月12日
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水野錬太郎(1932年)

水野 錬太郎(みずの れんたろう、慶応4年1月10日1868年2月3日) - 昭和24年(1949年11月25日)は、日本内務官僚政治家勲等勲一等内務大臣朝鮮総督府政務総監文部大臣貴族院議員などを歴任した。
来歴

江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年(慶應4年)1月10日、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義ェ(よしつま)に仕えた。佐竹義ェは秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義ェ(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。

立三郎は戊辰戦争官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。奥羽越列藩同盟に勝利して義理が2万石の岩崎藩主になると、立三郎は公議人になる。

1871年(明治4年)の廃藩置県により、1874年(明治7年)一家は東京に戻る。1882年(明治15年)頃、錬太郎は両親を失う。神田共立学校を経て、大学予備門(のちの)に入学、帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を明治25年に卒業、穂積陳重教授の推薦で渋沢栄一第一銀行に就職するが、明治26年梅謙次郎教授の勧誘により農商務省鉱山局に入る。明治27年、当時内務省土木局長の都筑馨六(1861-1923)(貴族院議員男爵枢密顧問官)から招かれ、内務省に入る。

内務省では社寺局長・地方局長などを歴任し、内務の大御所と言われる。なかでも有名なのは、1899年(明治32年)文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約加盟にあわせ、水野が起草した著作権法(明治32年3月4日法律第39号、旧著作権法)が制定された。1908年(明治41年)にはベルリンで開催された「万国著作權保護同盟会議」に全権委員として堀口九萬一公使館二等書記官とともに出席、修正ベルヌ条約に署名した[2]

原敬の知遇を得て、立憲政友会の党員になり、1912年(大正元年)12月5日、貴族院議員になる[3]1913年(大正2年)2月21日、内務次官になる。1914年(大正3年)4月21日、錦鶏間祗候に任じられる[4]1916年(大正5年)12月27日、内務次官に再登板。1918年(大正7年)4月23日、後藤新平からの慫慂で寺内正毅内閣内務大臣となる。帝大(東京帝大)卒の学士ではじめての内務大臣であった。在任中の1918年(大正7年)7月22日-9月12日に米騒動が発生している。

1919年(大正8年)、原敬内閣のとき朝鮮総督府政務総監になり、三・一運動の沈静化を図り文治政治と呼び慣わされた朝鮮人への懐柔策を手掛けた。

1922年(大正11年)に成立した加藤友三郎内閣でも内相を務めた。1923年(大正12年)8月26日に加藤首相が死去し第2次山本内閣に代わるも、9月1日に関東大震災があったため後任の内相(後藤新平)が決まるまで(9月2日)陣頭指揮をした。

1924年(大正13年)、清浦奎吾内閣が成立するとふたたび内相となり、帝都復興院総裁も兼任した。

1927年(昭和2年)、田中義一内閣で、高橋是清蔵相が辞任した後、三土忠造文相が蔵相に転任、そのあと水野が文部大臣についた。1928年(昭和3年)、田中首相は久原房之助を入閣させようとし、水野は反対し自分は辞任するとした。このことが世間に知られた。田中は水野に対し辞表の撤回をせまり、「昭和天皇へは、水野を留任させた、と伝えた」と言ったため、水野は了承、辞表を撤回した。水野は昭和天皇に拝謁し、「総理に対し辞表をお下げ渡しに相成りたること誠に恐懼に堪えざる」旨を申し上げた。


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