水野 重期(みずの しげとき、元禄8年(1695年) - 元文5年7月2日(1740年7月25日))は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)[1]第4代藩主。
の長男。母は水野良全(第2代藩主・水野重良の次男)の娘。養父は第3代藩主・水野重上であり、重上は母方の大伯父に当たる。養子に忠昭(水野重矩の子)。官位は従五位下・淡路守。初名は直泰(なおやす)。他に重矩(しげのり)、良達(よしみち)を名乗っている。幼名は市三郎。通称は主計。宝永4年(1707年)3月1日に養父が死去したため、同年4月7日に跡を継いだ。同年5月28日、第5代将軍・徳川綱吉に初御目見を果たす。宝永6年(1709年)12月18日には従五位下・淡路守に叙任される。
正徳4年(1714年)7月18日、家督を養嗣子の忠昭に譲って隠居し、元文5年(1740年)7月2日に死去した。享年46。法号は知泉院殿静山日体大居士。墓所は東京都新宿区須賀町の戒行寺。
脚注^ 幕藩体制下では大名格の所領を有しながら陪臣として扱われ、明治維新までは大名とは見なされなかった。
参考文献
『寛政重修諸家譜』第2輯、国民図書、1923年、881頁。
表
話
編
歴
水野家紀伊新宮藩4代藩主 (1707年 - 1714年)
浅野家
浅野忠吉1600-1619
主君・浅野長晟の安芸広島藩への転封に伴い、備後三原城城代
水野家
水野重央1619-1621
水野重良1623-1658
水野重上1658-1707
水野重期1707-1714
水野忠昭1714-1749
水野忠興1749-1763
水野忠実1763-1822
水野忠啓1822-1835
水野忠央1835-1860
水野忠幹1860-1871
廃藩置県