水野英子
生誕 (1939-10-29) 1939年10月29日(84歳)
日本・山口県下関市
職業漫画家
活動期間1955年 -
ジャンル少女漫画
代表作『星のたてごと』、『白いトロイカ』、
『ハニー・ハニーのすてきな冒険』、
『ファイヤー!』
受賞第15回小学館漫画賞
(『ファイヤー!』)
第39回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞
(全作品)
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水野 英子(みずの ひでこ、1939年(昭和14年)10月29日 - )は、日本の漫画家。 山口県下関市出身。日本の女性少女漫画家の草分け的存在で、後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、女手塚(女性版手塚治虫)と呼ばれることもある。トキワ荘に居住した漫画家の紅一点。代表作『星のたてごと』、『白いトロイカ』、『ファイヤー!』。2010年、第39回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞[1]。2023年、文化庁長官表彰[2]。 手塚治虫の『リボンの騎士』によって少女漫画に初めて長編ストーリーが導入された後、それをさらに発展させ1960年代までの間に、絵柄、衣装、取り扱うテーマ、ストーリー展開などの点で、戦後のロマンや西部劇や歴史劇の少女漫画、映画的な技法の少女漫画の基本形を確立した漫画家である。特に男女の恋愛を少女漫画で初めて描いた作家といわれる[3][4]。また、1960年代後半のカウンターカルチャーを真正面から扱ったロック漫画『ファイヤー!』は少女漫画の枠を超えて広い注目を集めた。 漫画史的にみると、手塚治虫が少年漫画で用いたダイナミックで映画的な表現技法を少女漫画に移植し、それを女性ならではの感性で昇華することによって(登場人物の衣装や髪型の緻密な描写、カラー原稿における華やかな色使い、恋愛感情の表現など)、当時の主流だった男性漫画家が描いた少女漫画にはない、女性の視点から描いた新しい少女漫画の世界を創出したとされる[5]。実際に、1950年代から1960年代初頭までは、石森章太郎やちばてつやなどの男性漫画家が少女漫画を描くことが多かったが、水野の登場によって、ほとんどの少女漫画は女性によって描かれるようになっていった。 藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫といったトキワ荘世代の男性漫画家の多くが手塚治虫に影響を受けたのと同様に、竹宮惠子、萩尾望都、青池保子などの24年組や同世代の女性漫画家の多くが、少女時代に水野の作品を読み、大きな影響を受けている[6][7][8][9][注釈 1]。 元々文学少女だったが、小学3年生のときに手塚治虫の『漫画大学』に衝撃を受け、漫画家を志す。中学生のころから雑誌『漫画少年』に投稿を続けていたが、佳作止まりで入賞することはなかった。しかし、審査員の手塚が保存していた水野の投稿作を偶然目にした『少女クラブ』編集者の丸山昭が水野の作品を気に入り、その場で手塚が水野の投稿作を褒めたことから、丸山が水野に原稿を依頼することになった[注釈 2]。この時、水野は郷里の下関で漁網会社に就職を決めたばかりであり、デビューからトキワ荘に移るまでは兼業漫画家だった。 1955年、15歳で漫画家としてデビュー[10][11]。それから3年後の1958年、初の長編連載『銀の花びら』(緑川圭子 原作)で人気を得る一方、石森章太郎、赤塚不二夫と「U・マイア」のペンネーム[注釈 3]で『赤い火と黒かみ』、『星はかなしく』、『くらやみの天使』を合作し発表した[注釈 4]。この合作のため、水野は郷里の下関から上京し、すでに石森と赤塚が住んでいたトキワ荘に入居することになった[注釈 5][注釈 6]。トキワ荘に居住している間は、自分の作品の執筆やU・マイア名義の合作以外に、石森のアシスタント的な仕事をすることも多く、石森の作画・表現技法に多大な影響を受け、自分の画力が飛躍的に向上したと語っている[13]。 『銀の花びら』、『星のたてごと』、『白いトロイカ 1960年に発表した初めてのオリジナル長編『星のたてごと』は、それまで少女漫画ではタブー視されてきた男女の恋愛を初めて描いた作品といわれる[15]。その後1960年代初頭からの少女雑誌の週刊誌化の頃は、編集者の方針によって『麗しのサブリナ』などのハリウッド映画を下地にした軽快なロマンチック・コメディー路線を展開した[16]。その一方で、少女漫画初の実際の歴史の動きを扱った歴史ロマンとされる『白いトロイカ』を1964年に発表している。
概要
作品活動