水野清一
[Wikipedia|▼Menu]

水野 清一人物情報
生誕 (1905-03-24)
1905年3月24日
日本兵庫県神戸市
死没1971年5月25日(1971-05-25)(66歳)
日本 京都府京都市
出身校京都帝国大学
学問
研究分野考古学(東洋考古学)
研究機関東方文化学院(京都)京都大学人文科学研究所
学位文学博士
テンプレートを表示

水野 清一(みずの せいいち、1905年3月24日 - 1971年5月25日)は、日本考古学者学位は、文学博士京都大学・1962年)(学位論文「雲岡石窟系譜」)。京都大学名誉教授。
経歴
戦前

1905年、兵庫県神戸市で生まれた。京都帝国大学文学部史学科に入学し、濱田耕作の下で学んだ。1928年に同大学を卒業[1]。卒業後は、東亜考古学会の留学生として1940年4月より北京に留学した。

1961年に帰国し、同年1月より東方文化学院京都研究所に研究員として勤務した。1938年に学院が改組されると、東方文化研究所助教授。研究所では、中国彫塑芸術の研究をテーマとして、引き続き濱田耕作の指導を受けた。また、同僚の長廣敏雄らと共に研究所が1936年から終戦まで華北で進めた龍門石窟山西省大同市での雲崗の発掘調査などに従事した。
戦後

戦後、1949年京都大学人文科学研究所が設立されると同研究所の教授となった。戦前に調査した中国の石窟寺院を調査研究をまとめ、1952年には共同研究『雲岡石窟』を刊行した[2]。1962年、学位論文『雲岡石窟系譜』を京都大学に提出して文学博士号を取得[3]1969年から7次にわたって「京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊」が組織された際には、調査隊を率いた。1968年に京都大学を定年退官し、名誉教授となった[4]。1971年、肝硬変のため死去[5]
受賞・栄典

1951年:
朝日賞を受賞。雲岡の研究に対して。

1952年:日本学士院賞恩賜賞受賞。『雲岡石窟』に対して。

研究内容・業績

戦前は東方文化研究所の研究員として中国での調査に関わった。『雲岡石窟』の成果は高く評価されている[6]

戦後は大陸での調査の機会を失ったことから、当初は沖ノ島壱岐など朝鮮半島や大陸文化の影響のある地域の研究を行ったが、次第に「京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊」の活動等を通して中央アジア地域の調査を進めていった。
著作
著書

雲岡石窟とその時代』(支那歴史地理叢書)冨山房 1939

改訂版(創元選書) 創元社 1952

中国語版 科学出版社 2014


『雲岡石佛群』(東方文化研究所雲岡石窟調査概報) 朝日新聞社 1944

『東亜考古学の発達』(古文化叢刊) 大八洲出版 1948

青銅器と玉』 日本経済新聞社 1959

『中国の彫刻』石仏・金銅仏 日本経済新聞社 1960

『陶器全集』25 唐三彩 平凡社 1961

『日本の美術』4 法隆寺 平凡社 1965

『中国の仏教美術』 平凡社 1968

復刊 1990


共著編

『内蒙古・
長城地帯』(東方考古学叢刊) 江上波夫・水野清一 東亜考古学会 1935

『河北磁県・河南武安響堂山石窟』長廣敏雄・水野清一 東方文化学院京都研究所 1937

赤峰紅山後 満洲国熱河省赤峰紅山後先史遺蹟浜田耕作・水野清一 東亜考古学会 1939

『龍門石窟の研究』長廣敏雄・水野清一, 座右宝刊行会 1941

復刻版 同朋舎 1980


『河南洛陽竜門石窟の研究』(東方文化研究所研究報告) 長廣敏雄・水野清一 座右宝刊行会 1941

『蒙疆に於ける最近の考古学的発見』(大東亜学術叢誌)日比野丈夫・水野清一 大和書院 1943

『羊頭窪 関東州旅順鳩湾内における先史遺蹟』(東方考古学叢刊) 金関丈夫三宅宗悦・水野清一 東亜考古学会 1943

『万安北沙城 蒙彊万安県北沙城及び懐安漢墓』東方考古学叢刊 東亜考古学会 1946

『雲岡石窟』西暦五世紀における仏教寺院の考古学的調査報告 長廣敏雄・水野清一 京都大学人文科学研究所 1951-56


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:15 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef