水野晴郎
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この項目では、出生名が水野和夫だった人物について説明しています。出生名が同じ経済学者については「水野和夫」をご覧ください。

みずの はるお
水野 晴郎
本名山下 奉大(やました ともひろ)
別名義水野 和夫(みずの かずお)(出生名)
MIKE MIZNO
ピーチエンジェル
生年月日 (1931-07-19) 1931年7月19日
没年月日 (2008-06-10) 2008年6月10日(76歳没)
出生地 日本岡山県高梁市又は満洲国
死没地 日本東京都
職業映画評論家
映画監督
タレント
大学教授
ジャンルサスペンス
ミステリー
活動期間1956年 - 2008年
活動内容1956年:20世紀フォックス入社
1961年:日本ユナイト映画入社
1972年:フリーランスへ。『水曜ロードショー』解説者
1983年:参議院議員選挙出馬
1985年:『金曜ロードショー』解説者
1991年:「日本映画批評家大賞」発起
1996年:初映画監督作品『シベリア超特急』公開
1997年:『金曜ロードショー』降板
2008年:「水野晴郎映画塾」設立
配偶者なし(生涯独身)
主な作品
映画解説
水曜ロードショー
金曜ロードショー』映画
シベリア超特急』シリーズ
備考
実際には1931年7月17日生まれと本人が発言。
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水野 晴郎(みずの はるお、1931年昭和6年〉7月19日 - 2008年平成20年〉6月10日)は、日本映画評論家映画監督タレント倉敷芸術科学大学教授大阪芸術大学客員教授

映画監督としてはMIKE MIZNO(マイク・ミズノ)の名義を使っていた。出生時の本名は水野 和夫(みずの かずお)であったが、山下奉文陸軍大将への尊敬の念と、自ら製作・監督し山下を演じた『シベリア超特急』シリーズへの愛着から、戸籍上の本名を山下奉文と一文字違いの山下奉大(やました ともひろ)に改名した[1]日本アカデミー賞の発案者[2]
経歴
生い立ち

1931年(昭和6年)7月誕生。戸籍では19日の生まれだが、両親が「17日だったよ」と言っていたような気がするとも述べている。高梁[3]の生まれと自著に記しているが、父親が赴任先の満洲に家族を呼んだため岡山で生まれたのか満洲で生まれたのかもはっきりしないと明かしている[4][5]。少なくとも2歳からは満洲で、5歳からは内蒙古、戦争が激化して再び満洲へと移ったが[6]太平洋戦争後は母の故郷である岡山県に引き揚げた。家計を助けるべく働いたため旧制中学に2年しか通えておらず、夜間高校(現在の岡山県高梁市立松山高等学校)に通い1952年(昭和27年)に卒業した[7]

高校卒業後、郵便局職員(当時は国家公務員)となり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「紙幣捌きの名人」と称されていた。[要出典]

青年期には岡山から大阪神戸市姫路の映画館に通っていた。この頃、慶應義塾大学の通信課程に入学。また郵便局に勤めている間の1955年(昭和30年)頃に父親が感電事故で亡くなっている[10]
映画界へ

映画との出会いは戦後であった[11][12]。太平洋戦争中は軍人として死ぬことを教育されていた水野は敗戦後の価値観の変化に戸惑い、アメリカからもたらされた民主主義の意味を理解できなかった。そのときに出会ったのがアメリカ映画だった。

「民主主義というのはこういう面白い映画をみんなが自由に撮れて、みんなが自由に観ることのできる社会なんだ!」そしてこの出会いは水野の人生そのものを決めることになったのであった。

東京に出て淀川長治の「映画の友」友の会に参加。淀川からは「水やっこ」と呼ばれて目をかけられた。会では日野康一らと出会った。

1956年(昭和31年)、20世紀フォックス映画にアルバイトとして採用され、のち正社員となって宣伝部で働いた。5年後に日本ユナイト映画にヘッドハンティングされ宣伝総支配人となった。ユナイト映画在籍時、ビートルズの主演映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』や『史上最大の作戦』『真夜中のカーボーイ』『夕陽のガンマン』、『追想』、意図的に誤字を使った『007/危機一発』などの日本語題を考案したのは水野だという説がある。ただし『007 危機一発』の「危機一発」については、1956年の東映映画『御存じ快傑黒頭巾危機一発』があり、以前から使われていたという意見もある[13]。1972年に独立。

この間、1960年代には本名の水野和夫名義で、また独立後は水野晴郎名義で、『スクリーン』『キネマ旬報』『映画評論』などの映画雑誌に映画評などを多数執筆した。特に『映画評論』では、「娯楽映画」として批評の対象外だった監督たち、加藤泰沢島忠深作欣二らをその活動初期から高く評価した[14]。また『スクリーン』には2000年代前半ごろまで「水野晴郎対談」や「アカデミー賞受賞作に見るアメリカ映画の楽しさ」など多数の連載を持っていた。

1958年(昭和33年)、母親が心臓発作で亡くなり、3人の弟と年の離れた妹を東京に引き取る。

1962年(昭和37年)に慶應義塾大学文学部を9年かけて、通信教育課程を経て卒業[15]文学士[16]
金曜ロードショーの解説者として

独立後は1972年10月4日から、日本テレビ系の映画番組『水曜ロードショー』の解説を担当。一方、自身の会社「インターナショナル・プロモーション」で、アルフレッド・ヒッチコックの『バルカン超特急』など、ヨーロッパ映画の配給を行った。

番組の中で水野が発する「いやぁ、映画って本当にいいもんですね?」(他に「面白いもんですね?」や「素晴らしいもんですね?」「楽しいもんですね?」も)というセリフは瞬く間に定着し、お茶の間の人気を集めることとなった。本人によれば、『水曜ロードショー』で1974年4月3日に放送した『シェーン』の解説で使ったのが最初で、番組の最後に時間が余った際「もう一言付け加えて」と担当者から言われ、とっさに出た言葉がこれだった[17]

解説者に起用されたのは、番組プロデューサーによると「クルーカットに口髭という一目で覚えられる風貌だったことが採用の決め手になった」とのこと。そのため収録時は口髭をメークで強調。当初はカメラの前で極度に緊張しNGを連発していた。本番前にココアや豆乳を飲むことで気持ちを落ち着かせるなど、慣れるまでは苦労の連続だった。

著作『母の愛 そして映画あればこそ―夢と希望を追い続けたわが60年』において「世界の警察を取材するために海外へ渡るときは解説を何本かまとめ撮りしていた」と述べている。映画評論の仕事で多忙を極め、時間がなかったことから2本の映画を同時に見たこともあり、「話の内容分かりますか?」と尋ねられ「2本とも分かりませんでした」と答えている。


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