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出典検索?: "水野成之"
凡例水野成之
時代江戸時代前期
生誕寛永7年(1630年)
死没寛文4年3月27日(1664年4月23日)
改名百助(幼名)→貞義(初名)→成之
別名十郎左衛門(通称)
墓所東京都中野区の萬昌院功運寺
幕府江戸幕府旗本(小普請組仕官)
主君徳川家綱
藩知行・3,000石
氏族水野氏
父母父:水野成貞
母:正徳院(蜂須賀至鎮の娘)
兄弟姉(賀嶋政玄[1]室)、姉(稲田稙春室)、水野成之 、弟(水野忠丘)、妹(蜂須賀家家臣山崎幸玄室)
子百助、娘[2](賀嶋重卿[3]室)
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水野十郎左衛門(初代 市川左團次、『極付幡随長兵衛』部分、豊原国周、1884年)
水野 成之(みずの なりゆき、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:水野 成󠄁之)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。 寛永7年(1630年)、旗本・水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、母の正徳院が徳川家康や織田信長の玄孫にあたる。 慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。慶安4年(1651年)には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に拝謁した。 父・成貞は傾奇者であり初期の旗本奴であったが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を頼光四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名の加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎(坂部広利)
生涯