水野忠邦
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 凡例水野忠邦
水野忠邦像
首都大学東京図書情報センター所蔵水野家文書、椿椿山画)
時代江戸時代後期
生誕寛政6年6月23日1794年7月19日
死没嘉永4年2月10日1851年3月12日
改名於菟五郎(幼名)、忠邦
別名松軒、菊園(号)
戒名英烈院忠亮孝友大居士
墓所茨城県結城市の旧万松寺跡
官位従五位下式部少輔和泉守左近衛将監従四位下侍従越前守
幕府江戸幕府 奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代西丸老中老中勝手掛老中雁間詰勝手掛老中
主君徳川家斉家慶
肥前唐津藩主→遠江浜松藩
氏族水野氏(忠元流)
父母父:水野忠光、母:恂
兄弟芳丸、忠邦、内藤正縄堀直哉跡部良弼[1]、駒木根政任、水野忠勧、長谷川正道、釧、連、朔、幸子ら
酒井忠進の娘・嗣
忠精榊原政愛正室、伊東祐相正室、八重
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水野 忠邦(みずの ただくに)は、日本の江戸時代後期の大名江戸幕府老中肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。天保の改革の指導者。
生涯
出生・唐津・浜松藩主時代

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。母・恂は風月堂初代喜右衛門の養女で、忠邦を生んだあと風月堂へ戻り二代喜右衛門の妻となったため、忠邦と三代風月堂は異父兄弟となる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍徳川家斉と世子・家慶御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。

文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。

忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部幕府領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。幕府の重臣となったことで、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。

その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政9年(1826年)に京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、11年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。

天保5年(1834年)に水野忠成が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、同8年(1837年)に勝手御用掛を兼ねて、同10年(1839年)に老中首座となった。
天保の改革詳細は「天保の改革」を参照

画像外部リンク
源頼光公舘土蜘作妖怪図[2] - 歌川国芳作(慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクション)

忠邦は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減しているにもかかわらず、大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府に強い危機感を抱いていたとされる。しかし、家斉在世中は水野忠篤林忠英、美濃部茂育(3人を総称して天保の三侫人という)をはじめ家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。

天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、ついで1841年(天保12年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、遠山景元矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵渋川敬直後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。

農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。


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