水野 年方
本名野中粂次郎
誕生日1866年3月6日(慶応2年1月20日)
出生地 日本・江戸神田東紺屋町
死没年1908年(明治41年)4月7日
(満43歳没)
死没地 日本・東京市
国籍 日本
芸術分野浮世絵、日本画
教育月岡芳年門下
代表作『三十六佳撰』
『今様美人』
『佐藤忠信参館図』
『橘逸勢女』
後援者秋山武右衛門(地本問屋「滑稽堂」)
影響を受けた
芸術家月岡芳年(師事)
影響を与えた
芸術家鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園、水野秀方、大野静方、荒井寛方ほか
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水野 年方(みずの としかた、1866年3月6日(慶応2年1月20日)- 1908年(明治41年)4月7日)は、 明治時代の浮世絵師、日本画家。 月岡芳年の門人。元の姓は野中、通称は粂次郎または粂三郎。 応斎、蕉雪と号す。神田東紺屋町[1]に住む左官の棟梁・野中吉五郎の長男として生れる。生来絵を好み、父の仕事を継ぐべく仕事場に行って土捏ねをするさなかに、漆喰にコテを使って絵を描いていたという。それを見ていた出入りの旦那が、年方の父に向かって「こんなに(絵が)好きなら一つ習わせてみたらどうか。失礼ながら(年方は)職人には惜しい品の良い子、骨細で色白な、あれあの日盛りの土蔵の屋根で仕事をしている柄ではない」と説き、父も年方が嫌と言えなかったことを不憫に思い、絵の道に進むのを認めた[2]。 こうして父の許しを得た年方は、明治12年(1879年)数え14歳で月岡芳年に入門し浮世絵を学ぶ。しかし、この頃の芳年は借金をして遊郭に入り浸るなどの不行跡が目立ち、これに我慢ならなかった年方の父が翌年には連れ戻している。その後生活のため一時、鈴木鵞湖門下の山田柳塘
来歴
生い立ち
修行時代
独り立ちと一門の継承『三十六佳撰』より「茶の湯」明治26年(1893年)『佐藤忠信参館之図』明治31年(1898年)
早くも明治17年(1884年)にデビュー、武者絵などを手がける。翌年の見立て番付「東京流行細見記」浮世絵の部では、早くも12番目に載っている。明治19年(1886年)頃からは『やまと新聞』に挿絵を描いて名を上げる。この時を機に、署名も「野中」から「水野」へ改めたと見られる。23歳か24歳の頃には日本青年絵画協会に出品して認められている。また柴田芳洲に南画を学び、明治23年(1890年)に芳洲が没すると、渡辺省亭や三島蕉窓について南画、花鳥画を学んだ。別号の「蕉雪」は、蕉窓との繋がりによる。一方で故実家の松原佐久について、有職故実も研究した。明治25年(1892年)に芳年が亡くなると、年方が「二代目大蘇芳年」を名乗るのは取りやめになったが、実質的に芳年一門の後継者に推された。
明治28年(1895年)創刊の『文芸倶楽部』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画家となる。年方の活動期は丁度日本の出版業界が勃興する時期に重なり、口絵挿絵の評判次第で売れ行きが大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画の依頼が引きも切らなかった。当時最も注文が多かった画家と言われ、生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人」のようなシリーズの他、風俗画を多く手がけ、芳年や楊洲周延の歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。
反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し、明治31年(1898年)日本美術協会の日本画会結成に参加。第1回展に出品した「佐藤忠信参館之図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、日本美術院の創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに日本絵画協会第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。翌明治32年(1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年(1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年(1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」[6]が銀牌を受賞した。