水野勝成
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 凡例水野 勝成
水野勝成像(賢忠寺所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕永禄7年8月15日1564年9月20日
死没慶安4年3月15日1651年5月4日
改名国松、藤十郎、忠則[注釈 1]、勝成[注釈 2]、一分斎、宗休[注釈 3]
別名六左衛門(通称)、鬼日向(渾名)、
神号聡敏大明神
戒名徳勝院殿参康宗休大居士
大機院前下大夫日州太守一分斎宗休大居士
墓所広島県福山市賢忠寺
官位従五位下日向守従四位下従三位
幕府江戸幕府
主君水野忠重徳川家康織田信長信雄)→仙石秀久豊臣秀吉佐々成政黒田孝高小西行長加藤清正立花宗茂三村親成→徳川家康→秀忠家光
三河刈谷藩主→大和国郡山藩主→備後福山藩
氏族水野氏
父母父:水野忠重、母:妙舜尼
兄弟勝成、忠胤、弥十郎、忠清清浄院、忠直、安部信勝室、森本右近室
正室三村親成の養女・お珊
側室:お登久、青木氏、桜庭氏、藤島氏ら
勝俊、成忠、成貞、勝則、勝忠、心光院
養子瑤林院、勝信、丹羽氏信正室
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水野 勝成(みずの かつなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後国福山藩初代藩主となる。幕末館林藩士・岡谷繁実作成の名将言行録には「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された。
経歴
少年期

勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母・妙舜尼は都築吉豊の娘としているが、水野家の文献では本願寺光佐の妹となっている[注釈 4]。永禄7年(1564年)に三河国刈谷の生まれとされるが、父・水野忠重は当時、同国岡崎に住んでおり、記録と矛盾している。忠重が鷲塚城主をしていた時代の子供であるから、鷲塚生まれとも考えられる。
高天神城の戦い

初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名[注釈 5]になる。勝成は奥田城、細目城を任される。

同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。

天正10年(1582年)、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いに加わった[3]

本能寺の変のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる[4]。霊源院の好意で京都を脱出したあと、京極高次の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた[5]
天正壬午の乱

天正10年(1582年)、勝成は父の許を離れ徳川家康の下で天正壬午の乱に参加する。甲斐古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和が成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某[注釈 6]等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる[6]
小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄与力である忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高本多康重らと木幡城に移り羽柴信吉を攻撃した。

この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると[7]、そのまま信吉麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[7]、家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した[8]。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った[7]
出奔

天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。勝成は伊賀者とともに真っ先に乗り込み、九鬼船二艘を乗っ取る[9]。一益の子滝川三九郎[注釈 7]と一騎打ち。勝成は三槍入れるも二ヶ所槍を入れられ、双方傷を負い、三九郎は大手門に逃げ込む[10]。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が羽柴秀吉伊勢国桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[7]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。以後、美濃尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。

京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした[2]

天正13年(1585年)3月27日、織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に入った勝成は、紀州雑賀攻めに参加した[11]。同年に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった[注釈 8]。9月1日[12]、勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡神田728石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれたという[13]。勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細ななりゆきは不明である[注釈 9]
九州転戦

天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられる。隈部親永の反乱(肥後国人一揆)が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城救援戦で先鋒となる[14]。この戦いでは武勇を知られた阿波鳴門之介(後に尼子十勇士に挙げられる)と戦功を競ったという。成政の要請に応じた立花宗茂が反乱側に包囲されていた平山東・西付城を後詰めした際には、立花家の十時連貞安田国継と共に働き城を救っている。一説によれば隈部親子を討ったのは勝成であるといわれる[15]

乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官した。豊前国人一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次殿を争った。

その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが備後国鞆の浦で下船し出奔した。長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。

天正16年(1588年)には小西行長に1,000石で仕官する。天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。志岐鎮経の本拠志岐城加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元本渡城を落とした。その後、行長の元を去り清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔した[16]
貴種流離譚

ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としている[注釈 10]。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となった。文禄3年(1594年)9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔するが、翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になった。このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる於登久(おとく)であり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊である。
跡目相続

慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)4月[17]、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解する。


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