出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2014年11月)
凡例水野 勝成
水野勝成像(賢忠寺所蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕永禄7年8月15日(1564年9月20日)
死没慶安4年3月15日(1651年5月4日)
改名国松、藤十郎、忠則[注釈 1]、勝成[注釈 2]、一分斎、宗休[注釈 3]
別名六左衛門(通称)、鬼日向(渾名)、
神号聡敏大明神
戒名徳勝院殿参康宗休大居士
大機院前下大夫日州太守一分斎宗休大居士
墓所広島県福山市の賢忠寺
官位従五位下日向守、従四位下、贈従三位
幕府江戸幕府
主君水野忠重(徳川家康→織田信長→信雄)→仙石秀久→豊臣秀吉→佐々成政→黒田孝高→小西行長→加藤清正→立花宗茂→三村親成→徳川家康→秀忠→家光
藩三河刈谷藩主→大和国郡山藩主→備後福山藩主
氏族水野氏
父母父:水野忠重、母:妙舜尼
水野 勝成(みずの かつなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。三河国刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後国福山藩初代藩主となる。幕末の館林藩士・岡谷繁実作成の名将言行録には「倫魁不羈(りんかいふき)」(余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない)と称された。 勝成は幼名を国松といい、若名を藤十郎といった。『寛政重修諸家譜』では母・妙舜尼は都築吉豊 初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名[注釈 5]になる。勝成は奥田城
経歴
少年期
高天神城の戦い
同年の第二次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。
天正10年(1582年)、武田勝頼を攻撃した天目山の戦いに加わった[3]。
本能寺の変のおりは、水野忠重、勝成父子は京都にいた。東山の東福寺山林に三日間身を隠したあと、東福寺境内の塔頭霊源院に匿われる[4]。霊源院の好意で京都を脱出したあと、京極高次の居城江州大津城に入り、それから京極勢の手で、刈谷城へ送られた[5]。 天正10年(1582年)、勝成は父の許を離れ徳川家康の下で天正壬午の乱に参加する。甲斐古府(現在の甲府市)において家康と北条氏直が対峙すると、勝成は鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。これを見た北条氏勝は氏忠の救援に向かうが、勝成と三宅康貞はこれを返り討ちにした。なお、この攻撃に際し鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠に追い付いて、抜け駆けだとして抗議したうえで「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と、先頭を切って敵陣に突入したという。この戦いで勝成は自ら内藤某の首級をあげ、数多くの首級をあげる。その後、北条氏と徳川氏の講和が成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某[注釈 6]等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる[6]。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の与力である忠重に従い徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入するが、善同は夜陰に紛れて逃げ延びたため、城を占拠した。次に小牧山から酒井忠次、榊原康政、大須賀康高、本多康重らと木幡城 この際に勝成が結膜炎の眼痛で兜を着用しておらず、鉢巻をしていたのを忠重が見つけ、「お前は兜を小便壺にしたのか」と強く叱責する。これに勝成は反発し「父上ながらあまりのお言葉。兜がないことで頭を割られても、それは時の運である。一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい」と、暇乞いを申し出て馬に乗ると[7]、そのまま信吉麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[7]、家康に持参した。
天正壬午の乱
小牧・長久手の戦い