水野信元
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 凡例水野 信元
時代戦国時代
生誕不詳[注釈 1]
死没天正3年12月27日1576年1月27日
改名忠次→信元
別名藤四郎、藤七郎
戒名信元院殿大英鑑光大居士
墓所楞厳寺 (刈谷市)
官位下野守
主君織田信秀織田信長足利義昭
氏族水野氏
父母父:水野忠政、母:松平信貞
兄弟近守、信元、信近忠守近信忠勝、藤助、忠分忠重、娘(松平家広室)、於大の方、娘(石川清兼室)、娘(水野豊信室)、娘(中山勝時室)、娘(水野忠守室)
松平信定
子十郎三郎、茂尾[注釈 2]土井利勝後述
養子:信政(元茂)(弟・信近の子)
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水野 信元(みずの のぶもと)は、戦国時代大名水野忠政の次男。母は松平信貞(昌安)の娘[注釈 3]。初名は忠次[注釈 4]通称は藤四郎(藤七郎)。受領名下野守。妻は松平信定の娘。
経歴
家督継承

天文12年(1543年)、父・忠政の死去[注釈 5]を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した[2]。天文21年(1552年)3月8日付の善導寺への寺領寄進が信頼できる初見の記録である。異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる。

信元が家督を継いだときの水野氏は、宗家の小河(緒川)水野氏の他、刈谷(刈屋)水野氏、大高水野氏、常滑水野氏などの諸家に分かれていた[注釈 6]

父・忠政は松平氏とともに今川氏についていたが、信元が緒川水野の家督を継いでまもなく松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国の織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。また、元々水野氏と松平氏の婚姻同盟自体が広忠の叔父で後見役でもあった松平信孝が推進したもので、天文12年に広忠が信孝を追放していることから、松平氏の外交方針に変化が生じた(敵対する信孝に近い水野氏との関係を切った)とする説もある[注釈 7][4]。なお、松平家広の嫁いだお丈の方も離縁されたと伝えられているが、家広は離縁せずに信元とともに織田氏についたとする説もある[5]。妻の実家である桜井松平家は宗家の広忠と関係が悪く、一方で織田氏とは婚姻関係にあったために、信元もその縁を利用して織田氏に接近して知多半島への勢力拡大を狙ったと考えられている[6]。また、知多半島の河和や師崎には戸田氏の分家の拠点があり、信元が半島を平定するには戸田氏との対立は避けられなかったことから、水野氏・松平氏の問題だけではなく戸田氏や同氏と対立する牧野氏との関係も考慮する必要があるとの指摘もある[注釈 8]。なお、水野氏は織田氏と対抗するために松平氏とだけではなく、斎藤道三とも同盟を結んでいたようであるが、当然この同盟も破棄されたと考えられている[7]
知多半島統一戦争

信元は、織田信秀の三河侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出し、松平広忠に離縁された妹の於大の方を、阿久居久松俊勝に嫁がせる。

天文12年(1543年)知多郡宮津城主の新海淳尚を攻める。新海は降伏勧告を断り、討死した。信元は宮津城を廃し亀崎城を築き、城主に稲生政勝を入れた。同年、成岩城に相対した小山に砦を築き、榎本了円(榎本了圓)を滅ぼす。成岩城主は、横根城(大府市)より水野家の臣・梶川秀盛(梶川文勝)が守将として入城した。さらに知多郡長尾城主の岩田安広を包囲。城主岩田安広は今川家に援軍を求めるが水野勢に対抗できず降伏した。安広は、出家し杲貞と名乗った。

分流である常滑水野氏3代目の水野守隆には娘を嫁がせ、これで半島横断路は信元のものとなった。常滑水野氏は、現在の半田辺りまで勢力を伸ばし、大野・内海の佐治氏と対抗関係にあった。信元は富貴城主の戸田法雲を攻略。さらに河和の戸田氏を攻略するため、布土城を築き、弟の水野忠分を城主の任に当たらせた。これらの勢いに押された戸田氏は戦いに敗れ、富貴・布土・北方(知多郡美浜町)を失い半島における戸田氏の勢力が衰退した。

天文15年(1546年)秋、信元は、松平広忠の配下の上野城主酒井忠尚を離反させる[8]

さらに天文16年(1547年)、田原城主・戸田康光は、岡崎の松平氏から駿河国今川義元のもとへ人質として送られる松平竹千代(後の徳川家康)を強奪。これを手土産に織田方に転じるが、今川氏に攻め滅ぼされ討死する。追いつめられた知多半島の戸田氏は信元と講和を結び河和を残すことを図る。そこで河和城主・戸田守光は、信元の娘・妙源を妻に娶り婿となって水野氏の一族に連なった。信元は知多半島南部でも、野間を支配下に入れ、大野佐治氏とも和解した。これにより知多半島は、常滑水野氏・大野佐治氏といった独立勢力性の強い豪族は残っているとはいえ、婚姻を結んでいる信元は知多半島の覇者となった。
今川氏との戦い

信元の協力を得たことで織田信秀は、三河に侵攻する。中でも織田信長の初陣とされる天文16年(1547年)の吉良・大浜へ出陣は、同地が水野氏の領土であることから、水野氏への援軍であったと考えられている。しかし、天文18年(1549年)11月に今川氏に安祥城を奪回されてからは情勢は織田氏に不利となる。この頃[注釈 9]、今川軍が刈谷城を一時的占拠したことがあり、程なく織田信秀と今川義元の和睦が成立した際に水野氏は今川氏の傘下に入ることとされたとみられる[9]

天文20年(1551年)3月3日、信秀は流行病により末森城で急死し[注釈 10]、信長が当主になるが、織田家は内紛に突入する。

天文21年(1552年)、織田方であった鳴海城主・山口教継父子が今川義元の傘下に入り、その策略で天文22年(1553年)には大高城、沓掛城が今川方に奪われ、知多半島西側の寺本城主花井氏も今川方に転じた。一方で、大給松平家が織田方に離反するなど、信長による巻き返しが活発化し、この頃に信元も織田方に復帰したとみられている[9]

天文23年(1554年)、重原城も今川方に攻略され、緒川城は、寺本城・藪城・重原城に囲まれ孤立。刈谷城も包囲。今川氏は水野信元を攻め滅ぼさんと計画したのである[10]。さらに今川氏は重原城経由で物資を運び、緒川城の眼前に村木砦を築き、ここに至って信元は、信長に救援を依頼した。同年1月24日、信長は居城の守りを斎藤道三からの援軍に任せるという思い切った策で援軍に駆けつけると、信元と協力して村木砦を攻略し(村木砦の戦い[11]、これ以降、水野氏の織田家へ従属性は強まったといわれる。織田陣営は勢力を盛り返し、三河国池鯉鮒を取り戻す。今崎城には織田の将兵が入り、水野配下では牛田城の牛田政興、坂部城の久松俊勝、知立城の永見貞英などが知られる。

弘治元年(1555年)10月、吉良氏が今川に反抗した際、援軍を求めるために吉良氏は人質を緒川水野氏に提出したが、緒川水野氏のみならず、刈谷水野氏も援軍を派遣している[12]


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