水車小屋(すいしゃごや)または水車場(すいしゃば)は水車を備えた構造物で、水車によって穀粉、製材、織物生産、金属加工など何らかの機械的工程を駆動する。英語では watermill と呼ぶが、直訳すれば「水力の製作所」であり、必ずしも水車が必須とは言えないし、小屋とは限らない。
日本では、農村などで米搗きなどに利用する目的で近年までは全国各地に見られたが、最近ではその数は激減した。しかし、その牧歌的景観は日本の田園風景によくなじむものとして、観光目的などで残されたり、再建されたりしている。南ドイツ一帯にはまだ水車小屋の多く残る地帯がある。目次
1 歴史
1.1 西洋
1.1.1 古典古代
1.1.2 中世
1.2 中国
1.3 インド
1.4 イスラム世界
2 水車場の運用
3 現代の水車場
4 水車場の用途
5 水車小屋の見られる場所
6 水車小屋と作品
7 脚注・出典
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
歴史「水車」も参照
水車場には基本的に2種類のものがあり、1つは垂直な水車で駆動して(回転軸を変換するために)歯車機構でその動力を伝達するもので、もう1つは水平な水車を使うものである。前者はさらに水が水車にどう当たるかによって、上射式水車、中射式水車、下射式水車に分けられる。
西洋
古典古代 ウィトルウィウスの記述から復元した古代ローマの水力製粉機の模型。上部のひき臼石を下部にある歯車機構を経由して下射式水車で駆動している。
水車場の構成要素である水車と歯車は紀元前1世紀にギリシア人が発明し、ローマ帝国時代には下射式、上射式、中射式の水車場が運用されるようになった[1]。
西洋での動力水車についての最古の文献は、ビザンチウムのフィロン(紀元前280年-220年ごろ)に仮託した紀元前80年頃のものである。サキヤ(水汲み水車)の螺旋機構はそのころ既に完成しており、プトレマイオス朝エジプトの紀元前2世紀の壁画にも描かれている[2]。
Lewis は水平型の水車を使った単純な水車場はギリシアの植民都市ビュザンティオンで紀元前3世紀前半に、垂直型の水車による水車場はプトレマイオス朝時代のアレクサンドリアで紀元前240年ごろに実用化されたとしている[3]が、一般的には紀元前2世紀後半と考えられている。
古代ギリシアの地理学者ストラボンは『地理誌』の中で、紀元前71年より以前からポントスのミトリダテス6世の宮殿の側に水力製粉所があったことを記している[4]。
古代ローマの技師ウィトルウィウスは紀元前40年から紀元前10年ごろ、西洋では初めて水車場について工学的な記述を残している。それは下射式水車を動力源とし、歯車機構でそれを伝達するものだった[5]。また、パン生地や粘土などを捏ねる水力機械の存在も示しているともしている[6]。
古代ギリシアの風刺詩人テサロニカのアンティパトロスは、紀元前20年から紀元10年ごろの改良された上射式水車を使った水車場について記している[7]。彼はその製粉の様子と人間の労働を軽減するという事実を次のように賞賛している[8]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}粉挽きの少女たちよ、製粉機から手をどけよ。たとえ鶏鳴が夜明けを告げても、眠り続けよ。デーメーテールがお前たちの手作業をニュンペーに課し、それらが車輪の上に飛び乗って車軸を回させるのだから。それを取り巻く歯車[9]と共に、車軸はニシロス島産石臼の中空の錘も回転させる。苦役なしに大地の産物を享受できるようになれば、ふたたび黄金時代が訪れるだろう。
古代ローマの博物学者大プリニウスは紀元70年ごろの『博物誌』の中で、イタリア半島の大部分で水力駆動のはねハンマーが使われていることを記している[10]。シリア属州のアンティオキアでは、紀元73年ごろの縮絨(毛織物の仕上げ工程のひとつ)用水車場の証拠が見つかっている[11]。
南フランスの紀元2世紀のバルブガル水道には水車場があり、古代ローマの西側では機械動力が集中していた地域の1つである[12]。16台の上射式水車があり、同数の穀粉機を駆動していた。1日で約4.5トンの穀粉を生産していたと見られ、アレラーテに当時住んでいた12,500人の住人の食べるパンを作るのに十分な生産量だった。同様な水車場複合施設はローマに小麦粉を供給するためにヤニクルムの丘に建設された。この施設はローマにとって非常に重要だったため、後にアウレリアヌス城壁内になるよう城壁が建設された。
2世紀末ごろの中射式水車を使った水車場がフランスのレ・マルトル=ド=ヴェールで発掘されている[13]。 ヒエラポリスにあった古代ローマの石切り用水車場の復元図。
紀元3世紀のヒエラポリスには石切り用水車場があり、クランクやコネクティングロッドといった機械要素を使った西洋では最古の例として知られている[14]。同様の水車場は6世紀ごろのジャラシュやエフェソスの石切り場にもあった[15]。4世紀の詩人アウソニウスはモーゼル川についての詩の中で大理石の石切り用水車場(現在のドイツにあった)について記している。ほぼ同時代のキリスト教の聖人ニュッサのグレゴリオスもローマ帝国各地で水力が利用されている様を記録に残している[16]。 チュニジアのシャムトウ遺跡にある古代ローマの水路。この先端に水平型水車(タービン)があり、回転させていたと見られている。最古のタービンと言われている。