水豊ダム
所在地左岸:朝鮮民主主義人民共和国平安北道
右岸:中華人民共和国遼寧省
位置北緯40度27分42秒 東経124度57分44秒 / 北緯40.46167度 東経124.96222度 / 40.46167; 124.96222
水豊ダム
各種表記
ハングル:???
漢字:水豊?
発音:スプンダム
日本語読み:すいほうだむ
英語:Supung Dam
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水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)平安北道の朔州郡と中華人民共和国 遼寧省の寛甸満族自治県の間(中朝国境)を流れる鴨緑江上流にあるダム。日本統治時代末期に8年の歳月をかけ1944年3月に竣工した。完成時は東洋一の規模を誇った。目次 ダムは、高さは約106メートル・幅約900メートル・総貯水容量116億立方メートル、ダムによって形成された水豊湖
1 概要
2 歴史
3 備考
4 脚注
5 外部リンク
概要
新しく設置された発電機7基のうち、3基は朝鮮向けの60 Hz、3基は北京向けの50 Hz、1基は50 Hz、60 Hzどちらでも発電可能な物である。竣工から70年以上経過した現在もダム本体は大きな改修工事が行われず現役であると思われ、現在も北朝鮮の重要なエネルギー源の一つである[1]。
なおダム湖は中朝国境となっており、北側は中国領である[1]。
歴史 建設中の水豊ダム
朝鮮半島が日本の統治下にあった1937年 (昭和12年)8月、朝鮮総督府と満州国は鴨緑江の電源開発に合意した[5]。日満国境 (現在の中朝国境) を流れる鴨緑江に、上流から、厚冒 (15.5万kW)、臨江 (9.5万kW)、慈城 (10.4万kW)、輯安 (23.4万kW)、渭原 (18.4万kW)、水豊 (70.0万kW)、義州 (17.3万kW)[6]の7つのダムを建設することで合計約160万kW[7]の電力を得ようとするものである。
同月、計画を実行する会社として朝鮮鴨緑江水力電気株式会社と満州鴨緑江水力電気株式会社が設立された。両社の社長は日本窒素肥料 (後のチッソ) の野口遵、資本金は共に5000万円。出資者は満州国、東洋拓殖株式会社、朝鮮水電、朝鮮送電である[5]。同年9月より、その第1期工事[8]として水豊発電所建設が始められた。水豊は鴨緑江下流の平安北道新義州府(現在の新義州市)から80 km地点にある。水豊上流の鴨緑江流域は九州の総面積よりも大きい4万5535 km2[9]、最大990 m3/s[6]の水を発電に使うことができる。建設費は1億4000万円[9]、工事は間組(左岸堰堤、発電所、鉄道・道路)、西松組(右岸堰堤、鉄道・道路)、松本組(鉄道・道路)が分担した[8]。
7台の10万5000 kWフランシス水車[10]は電業社[7]、10万kVA変圧器8台は東京芝浦電気 (後の東芝)が製造した。10万kVA竪軸発電機 (極数48、50/60 Hz、16,500 V) は当時世界最大容量であり、7台の内5台を東京芝浦電気、2台をドイツのシーメンスが受注[7]。東京芝浦電気鶴見工場では9号館(内藤多仲設計)を新設して発電機を製造した。
1941年 (昭和16年)8月2日、仮排水路を閉塞してダムに貯水を開始、水位が30 m上昇した8月26日[11]に第1号発電機から満州への送電が開始された。これを区切りとして鴨緑江水電第1期工事水豊発電所は8月25日竣工[12]とされる。竣工式には病床にあった野口の代理として常務の久保田豊が出席[13]した。8月30日に第2号発電機から朝鮮への送電開始。以降、据え付け完了した発電機から順次運転し、1944年 (昭和19年)2月までに6台の発電機が稼働した。しかし、第二次世界大戦の影響によりシーメンス担当の発電機1台が入荷せず、未完成の発電能力60万 kWで終戦を迎えた[14]。送電開始後も工事は続き、1944年 (昭和19年)には防空設備及び魚雷防止浮枠[15]も設置された。
なお、鴨緑江開発第2期工事[16]は義州発電所(20万kW)及び雲峰発電所(50万kW、慈城・輯安)の建設であったが、いずれの堤体も未完成で終戦を迎えた[17]。
1945年 (昭和20年)8月9日、ソ連軍の侵攻により発電機5台が略奪された[1]。略奪された発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川(エルティシ川)上流のダムで確認されている。
朝鮮戦争中、国連軍は発電所を空襲(英語: Attack on the Sui-ho Dam)した[18]。1952年6月23-24日の最初の攻撃にはADスカイレイダー、F-84サンダージェット、F-80シューティングスター等が用いられた。発電設備の大部分は破壊されたが、ダムの損傷は僅少だった。このとき水豊をはじめとする13の発電所への攻撃により北朝鮮は電力の90%を失った。発電が一部再開していることを確認した国連軍は1952年9月12-13日に29機のB-29により水豊を再度攻撃した。1953年2月15日、5月10日、6月7日の小規模な攻撃の後にも、放水路の流れから発電機2台がまだ稼働していると推測されていたが、攻撃は終了となった。休戦後に北朝鮮は発電能力を増強して復興した[1]。