卓球選手の「水谷隼」とは別人です。
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}水谷 準(みずたに じゅん)
1954年
誕生納谷 三千男(なや みちお)[2]
1904年3月5日[1]
北海道函館区[1]
死没 (2001-03-20) 2001年3月20日(97歳没)[1]
職業推理作家、翻訳家、編集者
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学文学部フランス文学科卒業[1]
活動期間1922年 - 2001年
ジャンル推理小説
ゴルフ[1]
主な受賞歴探偵作家クラブ賞短編賞(1952年)
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水谷 準(みずたに じゅん、1904年(明治37年)3月5日 - 2001年(平成13年)3月20日)[1]は、日本の小説家、推理作家、翻訳家。編集者でもあり、雑誌『新青年』編集長を累計18年務めた[1]。本名は納谷 三千男(なや みちお)[2]。 北海道函館区(現在の函館市)船見町の生まれ[1]。当時の函館は幕末に開かれて以来の国際的な港町であった。父はパン屋や外国人の執事をしており、外国人が三千男を「ジョン」と呼んでいたことから、のちに自らのペンネームを「隼」とした[1]。弥生小学校に在学中、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿して入選した[1]。 旧制函館中学(現:北海道函館中部高等学校)中退後、上京して早稲田高等学院に入学。在学中の1922年に博文館の雑誌『新青年』の懸賞に応募した「好敵手」が一等に入選。これが作家への第一歩となった[1]。1925年に早稲田大学文学部仏文科へ進学し、この年創刊された雑誌『探偵趣味』を翌春から学生のまま手伝い、実質的な編集長として切り盛りするようになった[1]。早稲田大学卒業翌年の1929年、延原謙の後を受けて『新青年』第4代編集長に就いた。1938年に編集長の役職を離れるが、1939年から、太平洋戦争終戦の年である1945年まで再び同誌編集長となった。水谷は編集長として、小栗虫太郎、獅子文六、木々高太郎、同郷の久生十蘭といった多くの作家をデビューさせた[1]。
人物