水谷新六
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みずたに しんろく
水谷 新六
1915年刊、「日本少年」10(13)掲載の写真
生誕1850年4月14日
三重県桑名市
死没不明(1921年9月以降)
不明(小笠原諸島静岡県?)
職業実業家探検家
配偶者久下なを
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水谷 新六(みずたに しんろく、1850年4月14日嘉永元年3月3日) - 1921年9月以降 )は、三重県桑名市出身の探検家実業家である。日本人で初めてミクロネシア方面との貿易を開始したと言われ、グランパス島の探検を繰り返す中で南鳥島にたどり着き、その後アホウドリの羽毛採取事業を開始するなど南鳥島の開拓に取り組んだ。またアホウドリなどの資源を追って、沖大東島東沙諸島北西ハワイ諸島へとその活躍の場を広げた。その後第一次世界大戦時は、南洋群島の占領を目指す日本海軍の水先案内人を務めた。
出自について

水谷新六は自らの南洋探検に関しては多くを語っているが、出自についてはほとんど明らかにしていない。また出身地の桑名は戦災で戸籍が焼失していて戸籍による検証が困難という事情も重なり、出生や家族関係の把握は困難である[1]。ただ、水谷はしばしば公的機関に対して申請や届出を行っており、それらの内容から判明している事実もある[2]

水谷は嘉永3年3月3日(1850年4月14日)、伊勢国桑名郡に川上松蔵の次男として生まれた。なお嘉永3年3月15日に生まれたとの記録もあるが、パスポート申請時に添付した書類や転居届の内容から、3月3日生まれと判断して良いと考えられる。また生まれた場所については桑名町16番地、桑名郡益生村字益生、桑名郡矢田村と、三種類の記録が残っている。いずれも現在の桑名市内であるが、どの記述が正しいのかは判明していない[3]

また父の名前が川上松蔵ということから川上新六が出生時の名前で、後に水谷家の養子になったと推測される。しかし養父の名前や養子となった時期、事情は不明である[2]

水谷の生家は農家であったとの記録が残っている。明治初年、故郷を飛び出して上京してまずは呉服屋の小僧となり、その後独立して呉服商を営むようになった[3][4]
小笠原から南洋諸島へ

1880年から1881年頃、水谷は服部新助と知り合った。服部は水谷と同業の呉服商で千葉県出身であった[5]。水谷は服部が亡くなる1895年まで服部と行動を共にするようになる[2]

1886年、水谷は300円の自己資金を携えて小笠原諸島父島へ向かい、雑貨店を始めた。当時の父島には雑貨店がほとんど無く商売は繁盛した[4]。当時、父島にはカロリン諸島マーシャル諸島からの船がしばしば入港していた。水谷の目は小笠原の先、ミクロネシア方面へと向かっていった。そして水谷の心を捉えたのはグランパス島の噂であった。グランパス島はちょうど父島のような島であり、天然の良港に恵まれ椰子やビロウの原生林がうっそうと茂り、開拓すれば小笠原諸島に勝るとも劣らないであろうと言われていた[6]

1885年頃、水谷は小笠原島司の小野田元凱の支援を受けてグランパス島探査を行った[7]。翌1886年には服部新助が帆船を購入し、水谷はその服部所有の帆船でグランパス島探査やグアム島ポナペ島トラック諸島などミクロネシアの島々との交易を始めた[8]。水谷の交易は、日本人としては最も早いミクロネシア進出であったと言われている。ところが1889年12月には不開港場規則と商船規則に違反したということで処罰を受けたとされる[9][10]

1890年2月6日、東京府の高崎五六知事のもとに横尾東作田口卯吉、水谷らが集まり、秩禄処分によって生活に困窮していた士族に対して事業資金を貸し付ける制度である士族授産金を活用した南洋諸島との貿易構想を提案した[8][11]。この構想は田口卯吉を頭取とした南島商会の設立へと進み、南洋貿易の経験者であった水谷が航路や貿易品の指南を行い、5月には貿易船が出航する[12][13]

ところが南島商会は資金問題で内紛が起こり、横尾東作、服部新助、水谷らは脱退した。1890年10月には榎本武揚の後援のもとで横尾東作は恒進会社を創設し、服部新助、水谷らが参加した。同年12月から翌1891年8月にかけて、水谷は恒進会社の懐遠丸でミクロネシア各地を回って貿易を行った[14][15]。1891年9月、水谷は独立して快通社を立ち上げ、トラック島に店舗を開いて貿易業を始めた。しかし持ち船の快通丸が座礁してしまったために短期間で快通社は解散を余儀なくされ、その後は服部新助の持ち船である相陽丸を用いて南洋貿易に従事した[16]

水谷が服部新助の持ち船で南洋貿易に従事していた1893年頃、東京朝日新聞ではミクロネシア方面の交易に従事している会社を5つ紹介している。その中には服部新助の相陽丸、横尾東作の恒進会社の他、小美田利義の一屋商会があった[17]。しかし一屋商会は経営破綻に追い込まれ、1895年に市川喜七が代表を務める金十舎という会社に事業を譲渡する。同年、水谷が行動を共にしてきた服部新助が亡くなると、服部の事業も金十舎が引き継ぐ形となり、水谷は金十舎の社員となった[18][19]
南鳥島での事業展開
グランパス島探査と南鳥島南鳥島

1890年前後、グランパス島発見を目指してしばしば探査船が南洋を捜索した。しかし誰もグランパス島を発見することは出来なかった[20][21]。グランパス島の捜索に熱心に取り組んだ人物の一人が水谷新六であった。水谷は前述の1885年の後、南洋貿易に従事するようになった1888年から1889年にかけてもグランパス島探査を行った[8]

金十舎の社員となった水谷は1896年11月、マリアナ諸島への貿易船運航の機会を捉えてグランパス島探査の航海に出航した[19][22]。水谷はグランパス島を求めて広い海域を探し回ったものの見つけ出すことが出来なかった。そうこうするうちに船員の中から不満の声が挙がり出したため、やむなく探査をあきらめてサイパン島へ向かおうとしたところ、12月3日に島を発見した[23]

しかし発見した島は天然の良港に恵まれ相当の大きさがあると言われたグランパス島とは異なり、小島であった。船員たちは失望したもの上陸してみたところ、島には多くのアホウドリがいた[23]。当時、玉置半右衛門鳥島でアホウドリの羽毛を採集し、巨利を挙げていた。水谷はこの玉置のアホウドリ羽毛採取のビジネスモデルを発見した小島で展開できると判断した[24][25]。水谷は早速1896年12月末には母島から20名の労働者を渡島させ、アホウドリの羽毛採取事業を開始した[22][26]


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