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みずたに ぶんじろう
水谷 文二郎
別名義水谷 文次郎 みずたに ぶんじろう
水谷 至宏 みずたに のりひろ
生年月日 (1896-05-09) 1896年5月9日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市
(現在の東京都)
職業撮影技師、編集技師
ジャンルサイレント映画、トーキー初期
活動期間1920年 - 1936年
活動内容1915年 日活向島撮影所入社
1920年 松竹蒲田撮影所移籍
1930年 「水谷至宏」改名
1936年 松竹大船撮影所異動
主な作品
『路上の霊魂』[1]
『マダムと女房』[1]
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水谷 文二郎(みずたに ぶんじろう[1]、1896年5月9日[2] - 没年不明[1])は、日本の撮影技師、編集技師である。初期名水谷 文次郎(読み同)、のちに水谷 至宏(みずたに のりひろ[2])と改名した[1]。
人物・来歴』を手がけ[3]、翌1921年(大正10年)、松竹キネマ研究所製作、小山内薫指導、村田実監督による松竹キネマの記念碑的作品『路上の霊魂』を手がける[1][3]。同撮影所がハリウッドから招聘した撮影技師・映画監督のヘンリー小谷に学び、日本映画の技術的近代化に寄与した[1]。
1930年(昭和5年)11月15日公開、牛原虚彦監督の『若者よなぜ泣くか
』以降、「水谷至宏」と改名している[1][4][5]。五所平之助監督による日本初の本格的トーキー『マダムと女房』に技術的研究段階から関わり[1]、1931年(昭和6年)、撮影を手がけ、同年8月1日の公開となった[5]。外見や身振りがダンディで、同撮影所の女優に人気のカメラマンであった[1]。1936年(昭和11年)に撮影所の移転により、松竹大船撮影所に異動になり、同年製作・公開の島津保次郎監督の『家族会議』、同じく『男性対女性』を手がけたのちの消息が不明である[1][5]。
おもなフィルモグラフィ
『光に立つ女』 : 総指揮小山内薫、監督村田実、1920年
『路上の霊魂』 : 指導小山内薫、監督村田実、1921年
『不如帰』 : 監督池田義臣、1922年
『幽芳集 乳姉妹』 : 監督野村芳亭、1930年
『進軍』 : 監督牛原虚彦、1930年
『若者よなぜ泣くか』 : 監督牛原虚彦、1930年
『マダムと女房』 : 監督五所平之助、1931年
『上陸第一歩』 : 監督島津保次郎、1932年
『婦系図』 : 監督野村芳亭、1934年
『家族会議』 : 監督島津保次郎、1936年 - 桑原昂と共同撮影・編集技師兼務
『男性対女性』 : 監督島津保次郎、1936年 - 編集技師兼務