水滸伝
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この項目では、明代の小説について説明しています。その他の用法については「水滸伝 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年6月)
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『水滸伝』(水滸傳、すいこでん)は、明代中国で書かれた長編白話小説。『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』とともに「四大奇書」に数えられる[1]

施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの「講談[注釈 1]」を集大成して創作したとされる[1]。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味であり、「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す。反権力的な傾向であるため、しばしば禁書とされたが広く愛読され、現在も中国で「農民革命の文学」として高く評価されている[1]
ストーリーの概略

時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された108人の好漢(英雄)が[注釈 2]、大小の戦いを経てりょうざんぱくと呼ばれる自然の要塞に集結。彼らはやがて、悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すようになる。

ストーリーの詳細については#内容を参照。人物については#登場人物、「水滸伝百八星一覧表」、または「Category:水滸伝の登場人物」を参照。
来歴清代の皿絵に描かれた宋江・林冲・朱仝詳細は「水滸伝の成立史」を参照

水滸伝の物語は実話ではない。しかし14世紀元代に編纂された歴史書『宋史』には、徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする36人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。講談師たちは12世紀中頃に始まる南宋の頃には早くも宋江反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定され、13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下36人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されている。

15世紀頃にまとめられた水滸伝では、36人の豪傑は3倍の108人に増やされた[注釈 3]。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定され、儒教道徳を兼ね備え知識人読書にも耐えうる文学作品となった。とはいえ、反乱軍を主人公とする水滸伝は、儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されず、もっぱら「民衆の読む通俗小説」として扱われた。その風潮の中で、明末の陽明学者で儒者の偽善を批判した李卓吾が、水滸伝のような通俗小説を高く評価したことはよく知られている。同じ時期に「農民反乱を扇動する作品である」として禁止令が出されており、また清代には京劇の題材にとられ、108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれた。

中国共産党では、「投降主義」的であると見なされ、降伏経験のある幹部や原則主義的な立場から見て妥協的であるとされる幹部への間接的な批判として水滸伝批判が行われた。1975年の毛沢東の名による水滸伝批判では、「宋江が前首領の晁蓋を棚上げして実権を握り、自ら首領となった挙句に朝廷に帰順したことが革命への裏切りである」として非難され、批判的に読むための連環画形式のものも出版された。これは後に「四人組による周恩来批判であった」と解釈された。

文化大革命が党によって全面批判された後は、このような政治的位置付けは行われなくなり、京劇の上演なども復活している。
原本

中国の通俗小説は「回」と呼ばれる講談の一話に相当するまとまりからなるが、現存する版本からの考察では百回構成が最も古い形とされる。容与堂本では、梁山泊に百八人の豪傑が集うまでを描いた七十一回と、梁山泊と朝廷の奸臣たちが派遣した官軍との戦いを描く十回、百八人が朝廷の招安を受けて、北方の契丹人の王朝と戦う九回、江南で宋江たちと同じように方臘の乱を起こしていた方臘を官軍として討伐する中で梁山泊集団が壊滅してゆく過程を描いた十回に分かれる。

水滸伝が人気を博するようになると、16世紀頃に最後の方臘戦十回の前に、百回本では叛徒として名前が登場するのみの田虎王慶の反乱軍を鎮圧するそれぞれ十回が付け加えられた百二十回からなる版が生まれた。これを百二十回本と呼び、もともとの百回構成の版を百回本と呼ぶ。

17世紀清代に、金聖嘆は百回本のうち物語が面白い部分は梁山泊に百八人が集う第七十一回までであると判断し、第七十二回以降を切り捨てた上で、第七十一回後半を書き改めて最終回とし、かつ回数を整えるため本来の第一回を前置きとし、第二回以下の回目をそれぞれ一回ずつ繰り上げた七十回本を作り、出版した。遼との戦いを含む後半部分を、女真人による異民族王朝である清が忌避したためとする説もある。清代には七十回本が流行し、中国では20世紀に入るまで水滸伝と言えば七十回本を指した。中華人民共和国成立後、七十回本の体裁にならいつつ、回目を復旧した七十一回本も出版されている。
日本における受容日本で描かれた水滸伝の豪傑。歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個・八臂那?項充」

日本へは江戸時代に輸入され、岡島冠山により『通俗忠義水滸伝』として和訳され[注釈 4]、広く普及した。翻案が数多く作られ、たとえば1773年(安永2年)に成立した建部綾足本朝水滸伝』は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在日本の伝奇小説の先駆けともなる作品である[要出典]。

19世紀には、浮世絵師歌川国芳葛飾北斎が、読本挿絵錦絵に描いた[9]曲亭馬琴が『新編水滸画伝』として翻訳を開始した際にも[10][11][12]、挿絵は北斎によるものであった。馬琴による翻訳は後に版元とのいざこざで中絶してしまい、高井蘭山が後を続けたが、蘭山による内容は冠山訳をなぞったものだった[注釈 5]。この馬琴・蘭山訳は、明治期まで何度も再刻された[注釈 6]


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