水滸伝の成立史
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水滸伝の成立史(すいこでんのせいりつし)は、中国明代に成立した長編小説四大奇書の一つである『水滸伝』の成立過程に関わる様々な論点についての概説である。

『水滸伝』は、北宋末期徽宗皇帝(在位1100年 - 1125年)の治世、山東の大沼沢「梁山泊」に集った、宋江ら宿星を背負う108人の盗賊の流転を描いた通俗(白話)小説である。物語の核は、史実で同時期に山東に横行した盗賊「宋江三十六人」の故事に由来するものの、その筋立ての多くは南宋代の都市で語られた講談で培われ、元の雑劇である元曲などの要素を吸収しつつ、代中期(16世紀半ば)に、小説としての形が確立した。

現存最古の完成された小説テキスト(文献本)は、万暦38年(1610年)に杭州の容与堂という書店が発売した『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(容与堂本と称する)であり[1]、小説として完成した年代はそれからややさかのぼった嘉靖年間(1522年 - 1566年)の頃が有力と推定されている。
作者の問題水滸伝挿絵「囚車解草寇」

小説『水滸伝』の作者については、古くからいくつかの説が存在し、大まかに

施耐庵

施耐庵/羅貫中

その他の説

に分けられる[2]。その他の説とは施耐庵や羅貫中がペンネームで正体は別の作家だとする説や、グループで執筆が行われたため個人の作者が特定できないとする説、そもそも数多くの講談や雑劇を寄せ集めた作品であるため特定個人の作者はいないとする説などを含む。特定作者を推定する場合も、元になった話の骨格や各回を構成する逸話は、講談や雑劇等で培われていたことが前提の上であり、一から小説を書き上げた作者というよりは、多くの要素をまとめた編者ないし完成者としての役割が想定されている。
施耐庵

現在、最も一般的に作者と目されているのは施耐庵であるが、これは現存する文献や『水滸伝』の古本に作者として記されている例があるからである。『水滸伝』に関する最も古い記録である『百川書志』[※ 1]に「忠義水滸伝一百巻 銭塘施耐庵的本 羅貫中編次」と記されており[3]、すでに当時から施耐庵が作者であるとの記述がされていたことが分かる。しかし、施耐庵なる人物は水滸伝の作者として名が挙げられるのみで、どのような素性の者かを語る資料は全く存在せず[4]、生没年も出身も不明である(上記『百川書志』に従えば銭塘出身か)。

当時通俗小説は、学のない者が読む程度の低い文章とされ、知識人の間では軽蔑された読み物であった。そのため作者が堂々と本名を名乗って上梓することはなかったと思われ、「施耐庵」は誰か別の作家が本名を隠すためのペンネームであったとする説もある[5][6]。中国では元末明初の戯作者施恵をあてる説もあり、孫楷第などは『中国通俗小説書目』で耐庵は施恵の号であると主張する。また後述(武定侯)のペンネームが施耐庵であったとする説もある。
羅貫中詳細は「三国志演義の成立史#羅貫中は作者なのか」を参照

三国志演義』の作者として知られる羅貫中もまた、『水滸伝』の作者とする説がある。『続文献通考』(王圻)、『西湖遊覧余志』(田汝成。嘉靖30年(1551年)頃成立)、『也是園書目』(銭曾。初成立)などでは、『水滸伝』の作者を羅貫中と記している[7][8]。また上記の『百川書志』や、『七修類稿』(郎瑛著。後述)では、羅貫中・施耐庵2人の名を挙げる。現存する『水滸伝』のテキストでも「施耐庵集撰、羅貫中編修」とするものが多い。羅貫中もまた経歴不明な人物であり、一般的には末明初(14世紀半ば)の人物とされる。賈仲名の『録鬼簿続編』によれば、親友の羅貫中は太原の人で湖海散人と称していたこと、楽府戯曲を書いていたこと、至正24年(1364年)に最後に会ったことが記されている。ただしこの羅貫中が『三国志演義』や『水滸伝』等の通俗小説を書いたことは一切記されておらず、同姓同名の別人である可能性が高い[9]。一方、羅貫中は明代中期の人物であるとする説もあり、実際正徳年間(1506年 - 1521年)末期から嘉靖年間(1522年 - 1566年)にかけて『三国志演義』『三遂平妖伝』等の長篇小説数十種が「作者・羅貫中」名義で続々と出版されている。ただし、こちらの羅貫中もすべて同一人物とは限らない。著作権意識の無かった当時、一つの小説が売れると「同じ作者の作品」と称して別の作品を宣伝することがあったためで、ベストセラー作家として羅貫中の名が勝手に使用された可能性も否定できない。また短期間に大量の長篇を続々と著作していることから、一人の作者の手になるものではなく、何人かのグループで執筆された可能性も高く、羅貫中の名はその作家グループの名であったということも考えられる[10][8]。実際、現行『水滸伝』の冒頭には「詞に曰く、試みに看よ書林の隠処の、幾多の俊逸なる儒流を…」との文があり、複数の作者による合作宣言とも受け取れる[11]

いずれにしても『水滸伝』の作者を施耐庵もしくは羅貫中個人に比定することには無理があり、現時点では作者不詳と言わざるを得ない。
李卓吾

『水滸伝』の作者としては上記のごとく施耐庵・羅貫中が挙げられることが多いが、その他にも作者に準ずる存在ともいうべき重要人物がいる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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