水晶の夜
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水晶の夜
クリスタルナハト
暴動で破壊されたユダヤ人商店のショーウインドウ(1938年11月10日)
場所 ドイツ国
標的ユダヤ人の居住地域、シナゴーグなど
日付1938年11月9日から10日
概要反ユダヤ主義暴動
犯人ヨーゼフ・ゲッベルス突撃隊
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水晶の夜(すいしょうのよる、ドイツ語: Kristallnacht、クリスタルナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。

暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、総統アドルフ・ヒトラー親衛隊(SS)は暴動を止める事なく、傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている(後述)。

事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた[1]。この事件により、ドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

水晶の夜という名前は、破壊された店舗のガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたことに由来する。この呼称は、ナチス政権側から一連の暴力を賛美するものとして使用されたものであり[要出典]、現代ドイツにおいては、「11月ポグロムドイツ語: Novemberpogrome)」、「1938年11月ポグロム(ドイツ語: Novemberpogrome 1938)」、「帝国ポグロムの夜(ドイツ語: Reichspogromnacht)」などが用いられる。ただし、イスラエル政府をはじめ、ヤド・ヴァシェムや米国ホロコースト博物館など、世界中の多くの被害者側ないしユダヤ人側の政府・施設では、正式に「水晶の夜(Kristallnacht)」という言葉を使い続けており、「水晶の夜」が、被害者やユダヤ人の感情を傷つける言葉や(日本で)言い換えが必要な言葉でないことが判る。
事件の原因
ナチスによるポーランド系ユダヤ人追放

1933年1月30日に、反ユダヤ主義を掲げるものの、多くのドイツ国民からの支持を受けてドイツの第一党となったナチス党の党首のアドルフ・ヒトラーが、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクからドイツ国首相に任命された。

ヒトラーの首相就任後、ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされることとなった。しかしドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。たとえ夜中の3時にゲシュタポがやってきても、彼らはポーランドの旅券を見せることで在住外国人としての権利主張ができた。いかにドイツ政府といえどポーランドと国交を結ぶ限りは彼らに正当な権利を認めなければならなかった。また旅券を有する彼らはいつでもポーランドへ帰ることもできた。

ところがポーランド政府は1938年10月6日、全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告した[2]。これによりドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされた[3]。ドイツに勝るとも劣らず反ユダヤ主義的だったポーランドは、ドイツの反ユダヤ主義政策が激化していく中、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人がポーランドへ帰って来ることを嫌がっていたのだった[4]

逆にポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したがっていたドイツ政府はこのポーランド政府の決定に激怒した。ドイツ政府はポーランドの旅券法が発効される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してしまおうと企図した[5]。1938年10月28日に保安警察(Sipo)長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将の指揮の下にドイツ警察が1万7000人のポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送した[3][6]。これに対抗してポーランド国境警察は国境を封鎖してユダヤ人の受け入れを拒否した。まだ旅券法が正式に発効していないにもかかわらずポーランド政府は未だ有効な旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを無法に拒否したのだった[5]

ドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料もない状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た[3][7]
ポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館員暗殺テロドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートを暗殺したポーランド系ユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパン。フランス警察の拘置所で。

センデル・グリュンシュパンの一家もこの時ドイツ政府によって追放されたポーランド系ユダヤ人家庭のひとつであった。センデルはパリにいる当時17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはドイツ政府の非人道的なやり方に激昂し、ドイツ大使館員を暗殺して世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した[6][3][7]

1938年11月7日、ヘルシェルは、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んだ[8]。ヘルシェルは大使館員によって捕えられ、大使館前で警備していたフランス警察に引き渡された[9]。ヘルシェルはフランス警察の尋問に対して「自分の家族がドイツ警察から非道の仕打ちを受けたと聞き、抗議のためにドイツ大使館員を殺害しようと決めました。ドイツで起きている事に対し、世界に訴えたかった。迫害されるユダヤ人に代わって復讐したかった」と語った[10]

ラートが撃たれたという事件の報を受けて、ナチス党の中でも狂信的な層は早くも11月8日にローテンブルク・アン・デア・フルダベブラゾントラなどのユダヤ人商店街やシナゴーグに対して反ユダヤ暴動を開始している[11]

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはゲオルク・マグヌス(de:Georg Magnus)教授と自らの侍医カール・ブラント博士の2人を11月8日早朝にパリに派遣し、ラートの治療にあたらせた[9]。フランス在郷軍人たちもラートへの輸血に応じた[10]。しかし結局ラートは11月9日午後4時30分に死去している[6][12]

ラートが死亡した11月9日にヒトラーはミュンヘンの市役所で催されていたミュンヘン一揆15周年記念式典に出席していた。その場に使いが入ってきてヒトラーにラートの死亡を耳打ちした。ヒトラーは隣に座っていたヨーゼフ・ゲッベルスの方へ向き直り、数分間何か話をした[13]


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