水彩
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「水彩画」はこの項目へ転送されています。ヨーゼフ・シュトラウスの楽曲については「水彩画 (ワルツ)」をご覧ください。
水彩画、カール・ラーションクリスマス・イヴ』1904年 - 1905年

水彩(すいさい、: Watercolor painting)とは、溶剤とする絵具、およびその絵具を使用して描かれた絵画のこと。水彩絵具で描かれたを水彩画(すいさいが)と言う。

水彩画は"絵具を塗ってゆく"というより、"色水を塗ってゆく"というイメージの方がむしろ適している。空気の薄さや透明感、空間、それらを出すのにとても最適である。

また比較的低価格で購入する事が可能で、幅広い年齢層に、親しまれている。
歴史

水彩画の歴史は非常に古く、旧石器時代ヨーロッパで洞窟に描かれた絵にまで溯ると思われる。少なくともエジプト王朝時代から写本彩色のために水彩は使用され、特に中世ヨーロッパでも使用され続けてきた。中世の彩色写本は元々、パーチメント(羊の皮)やヴェラム(子牛の皮)などに卵白テンペラで描かれていたが、次第に紙にアラビアガムの展色剤で描かれるようになった[1]。ヴェラムでは紙のようなにじみの効果は期待できず、技法的に現在の水彩とは隔たりがあった。芸術の手段としての継続的な歴史はルネサンス期から始まる。ドイツの画家アルブレヒト・デューラー (1471-1528) は、植物、動物、風景を描いた優れた水彩画を残していて、水彩画の最初期の代表的作家であると考えられている[2]。ドイツのハンス・ボル (1534-1593) を筆頭とした重要な水彩画の流派がデューラー・ルネッサンスの一部として存在した。アルブレヒト・デューラー、『兎』、1502、水彩、アルベルティーナ素描版画館(ウィーン)蔵

このように、古い歴史がありながら水彩はバロック時代の油絵画家からはスケッチや模写あるいは漫画(サイズの小さいデザイン画)の道具として使用されるのが一般的だった。この初期の水彩画に於いて目立つ存在といえば、(英国滞在時の)アンソニー・ヴァン・ダイククロード・ロランジョバンニ・ベネデット・カスティリオーネのほかオランダフランドルの画家が挙げられる。しかし、水彩画の歴史に於いて古くまた重要な伝統は植物画、生物画であろう。植物画はルネサンス期に人気が出て本や新聞の木版画に彩色を施したり、羊皮紙や紙に描いたドローイングに彩色を施したりした物であった。植物画は初期から精巧で完成した水彩画の分野であり、今日でも、対象をフルカラーで理想化し明確に捉えまとめることができる特徴により科学的な出版物や博物館の出版物のイラストレーションに使用されている。生物画は19世紀にジョン・ジェームズ・オーデュボン等により最盛期に達した。今日でも多くのフィールドガイドは水彩画で彩られている。
英国の水彩画

幾つかの要因が重なり水彩画は18世紀に特に英国で広く普及し、貴族の子女、特に女性にとって教養の一つとなっていた[3]。一方で水彩は鑑定家、測量士、軍人、技術者等から現場で地勢、防御施設、地形を記録する場合や公共の事業や依頼されたプロジェクトのイラストを作成する際の利便性により高く評価されていた。

ディレッタンティ協会(1734年結成)が資金提供した地質学や考古学の探検にはアジアアメリカ大陸地中海沿岸での発見を記録するために水彩画家が同行した。このような背景から地誌的風景画家の需要が高まった。彼らは当時の若者に人気のあったイタリアへのグランドツアーの名所の土産用の絵を量産した。18世紀後期、英国の牧師ウィリアム・ギルピンは英国の田舎の旅を記録して大人気となった ピクチャレスク な旅の本を書いた。その本は彼自身による教会の廃墟、古城、渓谷をモノクロームの水彩で描いた絵で彩られていた[4]。彼の本は個人的な旅行記での水彩の人気を高めた。これらの文化的、技術的、科学的要求、旅行者、アマチュアの興味が重なったことにより英国の水彩画は「国民的美術」と言えるまでに発展普及した。当時活躍した偉大な水彩画家にはトマス・ゲインズバラジョン・ロバート・カズンズフランシス・タウンマイケル・アンジェロ・ルーカーウィリアム・パース、トマス・ハーン、ジョン・ウォリック・スミスがいる。ウィリアム・ブレークは銅版画と詩を一緒に版刻して手彩色を施した本をいくつか出版したり、ダンテの『神曲』の挿絵を手がけ、大きな水彩によるモノタイプ[5]を試行したりしている。

18世紀末から19世紀にかけて、印刷された本と英国内で生み出される美術作品の需要が水彩の需要を飛躍的に高めた。水彩画は風景画集や旅行者の土産となる銅版画の元になる資料として使われた。また、水彩のオリジナルの作品や有名な作品の模写をコレクションに加える上流階級の人も増えた。ルドルフ・アッカーマンにより出版されたトマス・ローランドソンの風刺画もとても人気があった。トマス・ガーティン、『Jedburgh Abbey from the River(川からのジェドバラ修道院の眺め)』、1798-99、紙に水彩

水彩を成熟し独立した絵画のメディアとして確立するのに三人のイギリス人に功績があったとされる。「イギリス水彩画の父」と呼ばれるポール・サンドビー (1730-1809) 、大きなサイズのロマン派的またはピクチャレスクな水彩風景画の先駆者トマス・ガーティン (1775-1802) 、そして水彩画に最高の洗練と完成された作品としての地位を与え何百という卓越した歴史、地誌、建築、神話の分野の絵画を水彩で作製したジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー (1775-1851) である。彼は段階を追って水彩画を作成した。最初に濡れた紙を薄い色でおおまかに色面分けした後、ウォッシュやグレーズによってイメージを整えるという手順で、手工業的工場並みの効率性で大量の作品の製作を行うことが可能だった[6]。このため、その類の初めてのものとも言える彼の個人的ギャラリーの売り上げも一役買って億万長者になることができた。ターナーやガーティンの同時代人で非常に才能があり重要な作家にはジョン・ヴァーリイジョン・セル・コットマンコプリー・フィールディングサミュエル・パーマーウィリアム・ハヴェルサミュエル・プラウト等がいる。スイスの画家のデュクロもサイズの大きい、ロマン派的な水彩画で広く知られている。J・M・W・ターナー、『アルプス風景』、1802、テートギャラリー

アマチュアの活動、出版の需要、中産階級の美術収集、19世紀の絵画テクニックが合流し現在の英国王立水彩画家協会 (the Royal Watercolour Society) の前身である水彩画家協会 (the Society of Painters in Water Colours (1804)) や新水彩画協会 (New Water Colour Society (1832)) 、スコットランド水彩画家協会が設立された。これらの協会は毎年展覧会を行い多くのアーティストにコレクターを紹介する他、つまらない美術上の地位の争いや美学上の論争(特に伝統的な透明水彩とボディカラーやガッシュと呼ばれる不透明水彩の間)の舞台となった。ジョージ王朝時代後期からヴィクトリア朝時代は水彩で最も印象的な作品が作られた英国水彩画の絶頂期と言える。その当時の代表的な画家は、上記のターナーヴァーリイコットマンデビット・コックスピーター・デ・ウィントウィリアム・ヘンリー・ハントジョン・フレデリック・ルイスマイルズ・バーケット・フォスターフレデリック・ウォーカー、トマス・コリアー等が挙げられる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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