この項目では、岡山県倉敷市の水島支所が管轄するエリアについて説明しています。当地南部を中心とする工業地域については「水島臨海工業地帯」をご覧ください。
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水島地域
みずしま
国 日本
地方中国地方(山陽地方)
都道府県岡山県
自治体倉敷市
旧自治体浅口郡連島町(1953年5月31日まで)
児島郡福田町(1953年5月31日まで)
初代倉敷市(1953年6月1日-1967年1月31日)
世帯数39,611世帯
総人口89,521人(登録人口
水島地域(みずしま ちいき)は、岡山県倉敷市の行政上の地域区分である。市の中南部に位置し、水島支所の管轄域に相当する[1]。
かつての浅口郡連島町および児島郡福田町であったエリアに加え、両地沖合の干拓・埋立地および旧東高梁川廃川地における新開地からなる。 水島臨海工業地帯の中枢部を有することで知られ、現在人口約90000人である[2]。 市内の本庁直轄および支所管轄各地域は、中心市街地が近世以前からの古い歴史的集落に起源があるのに対し、当地域の中心市街地は近代において計画的に造成された新しい街であるのが特徴的である[3]。 また市内主要4地域のうち、倉敷・玉島・児島は現行倉敷市施行以前は市であったが、当地域は3地域と異なり、市であった時期はなかった。しかしながら、市と同等並の人口規模と都市機能を有する[3]。 当地域は元は浅口郡連島町・児島郡福田町の2町であった。町境にはかつて現・倉敷市酒津で分岐した(それより古くは現・総社市清音古地で分岐)東高梁川の河口部があり、川の東に福田、西に連島があり、連島の西には西高梁川(現行の高梁川)の河口部があった。なお、連島の西の対岸は当時の玉島市であった[4]。 大正期の高梁川の大改修工事で東高梁川が廃川となり、河口部には広大な廃川地が生まれた。さらに河口廃川地の沖合を順次干拓・埋め立てて造成していき、それらの廃川地・干拓地・埋立地を次第に整備して生まれたのが当地域の中心市街地と水島臨海工業地帯中枢地(A・B・D地区)であり、この新開地を狭義での水島地区と呼ぶ[5]。 前述の水島臨海工業地帯が当地の代名詞的な存在で、規模も非常に大きいため、水島の産業は工業一辺倒のイメージが先行しているが、実際は農業も非常に盛んである。水島新開地の開発以前は、連島・福田両町は農業が主産業であった。新開地やその周辺は市街化が進み農地が激減しているが、それよりも郊外には現在も農地が多い。現在では特に、鶴新田地区では近世よりその土壌を生かしたレンコン栽培が盛んであり、連島の江長地区では高梁川廃川地の土質を利用したゴボウ栽培が盛んで、当地の代表的農産物としてブランド化している。他にもショウガなども主産物である。その一方で、新開地開発以前は、綿花・イグサなどの農産物やそれらの加工品、また当地のアシを使った簾、さらには漁業なども代表的な産業であったが、現在では市街化とともに衰退している[2][6]。 水島には生産緑地として約593haの農地があり、工業と同時に農業も盛んである点は他の工場地帯とは大きく異なる[2]。 当地の発展は、工業地帯の発展とともにあり、戦後の高度経済成長とともに水島工業地帯が大きく発展すると、大気汚染や海水汚染などの公害問題が発生した[2]。 広義の岡山平野の一部である水島平野が地域の大部分を占め、平野部の北東に大平山などの山頂を有する連島山塊、北東部に児島半島の大部分を占める児島山塊の北西部(種松山など)、南東部には同山塊の西部(鴨ヶ辻山など)などの丘陵を配している。なお、連島山塊の北麓も当地域内である。西部は高梁川の河口部となり、対岸は玉島となる。南側には、亀島山と王島山の小規模な丘があり、その南方に工業地帯が立地、さらにその南方には水島灘が広がる。水島灘の高梁川河口沖にある水島群島・網代諸島(現在はいずれも無人島)も当地域内となる。ただし近接する濃地諸島は児島地内となる[6]。 平野部の大部分は近世以降に干拓された新田地帯であり、中央から南部にあたる水島新開地は近代における開発である。丘陵の麓あたりに古くからの集落が集中し、平野部は新開地およびその周辺は市街地、郊外には宅地・商店・事業所などと農地が混在している。また丘陵部には大型住宅地が造成されている所が複数ある。南東部の鴨ヶ辻山西麓の沿岸部には古くからの漁港である呼松港がある[6]。 連島山塊や児島山塊は、古くは島嶼であった。高梁川等の沖積作用により海が浅くなり、中世末期より順次干拓されていき、ついには陸続きとなった。現在の水島平野は、近世において陸続きとなった以降に徐々に干拓された新田地帯である[7]。 中世後期以前は当地は海域であり、連島・亀島・王島・児島はそれぞれ同名の島嶼であった。古代においては、連島は備前国都羅郷に属していたとされ、福田は同郷、もしくは児島郷に属していたといわれる。その後は、都羅庄という荘園が存在した[5][6]。 源平合戦のときには当地から現・玉島の柏島・乙島にかけて水島合戦が繰り広げられた[6][8]。 中世後期頃になると、当時の高梁川河口沖が、沖積作用により干潮時に干潟が広がるようになり、次第に干拓されて新田が開発されていった。その結果、江戸時代前期には連島・児島とも陸続きとなる[6]。 江戸時代、延宝2年から6年頃にかけて、連島南方沖から亀島にかけて干拓され、亀島新田が造成され、寛政6年には鶴新田が干拓された。また児島北西部では、享保9年には福田新田(のちの福田古新田)、のちに嘉永5年に新たな東高梁川河口部にできた高塚原とよばれるデルタを中心に開墾された福田新田(福田沖新田)などが造成され、現在の水島平野の大部分が形作られた[5][6]。 連島は海に面していた時代は、西之浦を中心に西阿知と並ぶ、高梁川河口周辺における備中有数の商港として非常に繁栄した。しかし、干拓による陸地化と、玉島港の新設により、次第にその機能は失われた。しかし、陸地化後の新田によるイグサや綿花の栽培と、それに関連する加工製品製造、また当地のアシを利用した簾(連島簾)や、土地質を利用したレンコン栽培などを主産業とするようになり、それら加工製品の行商の教典としても繁栄するようになった[5]。 福田は半農半漁の小村が点在している地域であったが、近世における福田古新田や福田新田の造成により、農業地域として大きく発展した。
概要
地勢水島市街
河川
高梁川
八間川
山岳
連島山塊
太平山
児島山塊
鴨ヶ辻山
城山
黒山
亀島山
王島山
沿革
歴史連島の倉敷芸術科学大学付近から南側(工業地帯方面)の遠望連島町と福田町の境界になる八間川