嵯峨水尾(さが みずお)は、京都府京都市右京区の地名。「柚子の里」や「清和天皇陵」などで知られている。「きれいな水が湧く所」という意味がある。古くは水ノ尾とも水雄とも書き、「みずのお」「みのお」とも呼ばれたが、集落の位置が清滝の川尻にあたることから水尾という表記になった[1]。京都市の元学区では「水尾」全域にあたる。
地理
京都市右京区の北西部にあり、信仰の対象として有名な愛宕山(924m)の南麓にある。北東側には愛宕山、西側には牛松山(636m)などがあり、四方向を山に囲まれる山間狭隘の集落である。北側は右京区嵯峨越畑・嵯峨樒原(宕陰地区)、西側と南側は亀岡市保津町と接している[2]。愛宕山西麓を源流とする水尾川が集落西側の谷を流れており、水尾川は京都府道50号京都日吉美山線に沿って南進した後にJR山陰本線保津峡駅付近で保津川(桂川)に合流する。府道50号沿いの標高は257mであり[注 1]、集落の北端(民家)と南端(水田)で約100mの標高差がある。 平安時代初期に編纂された『続日本紀』には「宝亀三年十二月 行幸山城国水雄岡」や「延暦四年九月 行幸水雄岡遊猟」などとあり[1][2]、光仁天皇や桓武天皇が水尾を訪れていたことがうかがい知れる[3]。奈良時代には山城国葛野郡に属したが、平安時代には一時丹波国桑田郡に属し、やがて山城国に復したという[1]。平安時代中期に成立した『うつほ物語』には源仲頼が水尾山に隠遁したことが記されており[1][2]、東の八瀬大原と並ぶ西の出家・隠遁の地として知られていた[1][4]。 平安時代前期、文徳天皇の第4皇子であり9歳で即位した清和天皇(850-880)は水尾の地をこよなく愛し、水尾帝とも呼ばれた[5]。清和天皇は27歳で陽成天皇に譲位した後、30歳の時に仏道修行のために近畿各地を回り、その最後に水尾の山寺に入った[4]。清和天皇は水尾の地を終焉の地と考え[1][4]、31歳の時に洛東の円覚寺で亡くなった[1][5]。遺骨は遺詔(遺言)によって水尾の水尾山寺に葬られ[1]、清和天皇水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)は集落から水尾川を渡って対岸にある清和山の中腹に設けられている[5]。清和天皇を祭神とする清和天皇社は水尾の氏神であり、境内には摂社として四所神社が祀られている[5]。両社の創始年代は不明[6]。応永27年(1420年)に洛東の円覚寺が焼失すると、水尾山寺が円覚寺の名を継承し、水尾の円覚寺は延宝7年(1679年)の大火で焼失したが、約100年後の安永5年(1776年)に再建された[7]。 周辺には樒(しきみ)が繁茂していたことから、水尾村と北側の原村を合わせて樒原と呼ばれた[2]。原村は右京区の一部となった1931年(昭和6年)以後は町名に「樒原」が用いられている。1582年(天正10年)、明智光秀は本能寺の変の6日前に亀岡の亀山城から水尾を訪れ、愛宕山の愛宕権現に参拝してから京に向かった[8]。明暦4年(1658年)頃の村は上町・下町・西町・辻町の4町に分かれていて村高は95石であり、村高は宝永年間(1704年-1710年)に110石に改められた[1]。近世には丹波国と山城国を結ぶ道がふたつしかなく、老ノ坂峠(現在の国道9号の経路)越えと水尾越えの二者択一を迫られた。このため水尾は繁栄し、人口が1,000人に近い時代もあったとされるが[3][9]、延宝7年(1679年)と天保6年(1835年)に大火があり、延宝の大火では85戸中82戸が、天保の大火では20戸が焼失した[2]。『嵯峨誌』によれば明暦4年(1658年)の戸数は77、明和2年(1765年)は72、天保6年(1835年)は55であり、『京都府地誌』によれば明治10年代の戸数は49だった[2]。愛宕山は東麓が水尾村領、西麓が上嵯峨村領であり、清滝からの登山道が表参道、水尾や樒原からの登山道が裏参道である[2]。表参道と裏参道が合流する八合目は「水尾わかれ」と呼ばれ、水尾わかれのすぐ上には水尾女(みずおめ)が参拝者に樒を売る花売場があった[8][注 2]。江戸時代の産物にはビワ、柚子、マツタケ、砥石などがあり[2]、明治時代にはビワ、柚子などを京阪に出荷した[1]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると水尾村など5村が合併して嵯峨村 水尾村
歴史
古代
清和天皇との関係 清和天皇水尾山陵
近世・近代
行政区の変遷
廃止日1889年
廃止理由町村制施行時にともなう合併
水尾村、天竜寺村、上嵯峨村、原村、越畑村→葛野郡嵯峨村
現在の自治体京都市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県京都府
郡葛野郡
面積7.881 km2.
水尾村役場
所在地京都府
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