水天宮_(東京都中央区)
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水天宮


本殿
所在地東京都中央区日本橋蛎殻町二丁目4番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分1秒 東経139度47分6秒 / 北緯35.68361度 東経139.78500度 / 35.68361; 139.78500 (水天宮 (東京都中央区))座標: 北緯35度41分1秒 東経139度47分6秒 / 北緯35.68361度 東経139.78500度 / 35.68361; 139.78500 (水天宮 (東京都中央区))
主祭神天御中主神
安徳天皇
高倉平中宮
二位の尼
社格等無格社
創建文政元年(1818年
札所等日本橋七福神弁財天)、下町八福神
例祭5月5日
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水天宮(すいてんぐう)は、東京都中央区日本橋蛎殻町にある神社福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社である。
概要

地下鉄「水天宮前駅」と直結している。安産祈願で有名なので若い夫婦の参拝が多い。一階は全天候型駐車場で「大きなコンクリートの箱」のような趣で神社らしい雰囲気はあまりない。白木造りの社殿はこのコンクリートの土台の上に構築されているため、かなりの高さがある。社殿の正面に厳かなデザインをした六階建てのビルがあり中央の階段を上がると二階の境内に入ることができる。階段の両脇には提灯が供えられてある。著名な神社にしては敷地が狭いが建物全体を免震構造にするなど現代的な設備をもった都市型の神社である。
祭神

天御中主神安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)。
神徳・御利益・信仰

江戸時代より安産・子授けの神「おすいてんぐさま」として人々から厚い信仰を集める。妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦などが、安産や子授かりの願掛けお礼参りなどで人並みが途絶えることがない。
歴史

久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、文政元年(1818年)9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月5の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間2000に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった。

明治4年(1871年)、有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが、翌明治5年(1872年)、有馬家中屋敷(近隣の中央区立有馬小学校に名前と痕跡が残る)のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。

江戸鎮座200年記念事業として社殿の建て替えを行った。それに伴い、平成25年(2013年3月1日から平成28年(2016年4月7日までの間は、日本橋浜町明治座そばに仮宮(北緯35度41分14秒 東経139度47分15秒 / 北緯35.68722度 東経139.78750度 / 35.68722; 139.78750 (水天宮(仮宮)))が設けられていた[1]。これは少なくとも、昭和40年代初期に嵩上げ工事をして2階建てとなって以来、ほぼ半世紀ぶりの遷座である。

平成28年(2016年)4月8日より新社殿への参拝者の受け入れを開始した。新築に合わせて最新の設備が導入され、社務所や待合室は非常に現代的な造りとなった。さらに社殿だけでなく参道回廊など境内全体に免震構造が採用されている[2]

江戸鎮座200年記念事業の一環として、境内を一新した御造替(建替工事)事業は、2016年度グッドデザイン賞[3]、2020年に日本建設業連合会主催の第61回BCS賞の一つに選ばれている[4]

有馬家との縁は続いており、2016年現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第17代当主である。「水天宮」水天宮は文政元年(1818)、久留米藩主の有馬頼徳(1797 - 1844)が、三田赤羽の藩邸内に久留米水天宮を勧請したのが始まり。明治5年(1872)に、現在の日本橋蠣殻町に移った。安産、水難除けの神として知られ、毎月5日には、縁日が開かれ多くの参詣者で賑わった。縁日の際に参道では鏡餅が売られ、購入した参詣者には、厄除けのため火打石で切り火が切られた。半紙に包まれた鏡餅と、「吉井女作」と書かれた紙を添付した火打金(火打鎌)と、火打石の絵あり。 ? 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「水天宮」より抜粋[5]
境内外社

寳生辨財天(市杵島姫神社) -
品川の有馬家下屋敷に祀られていた辨財天像を安置する。


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