水原茂
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水原 茂1956年11月撮影
基本情報
国籍 日本
出身地香川県高松市
生年月日 (1909-01-19) 1909年1月19日
没年月日 (1982-03-26) 1982年3月26日(73歳没)
身長
体重170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手
プロ入り1936年
初出場1936年
最終出場1950年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


香川県立高松商業学校

旧制慶應義塾大学

奉天実業団

東京巨人軍
読売ジャイアンツ
(1936 - 1942, 1949 - 1950)

監督歴

読売ジャイアンツ (1950 - 1960)

東映フライヤーズ (1961 - 1967)

中日ドラゴンズ (1969 - 1971)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1977年
選出方法競技者表彰
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水原 茂(みずはら しげる、1909年明治42年〉1月19日 - 1982年昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手内野手)・監督解説者評論家

1955年から1959年登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。
概要

現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。
経歴

幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという[1]
現役時代

香川・旧制高松商業学校(現香川県立高松商業高等学校)時代は、先輩・宮武三郎(のちの阪急初代主将)とともに甲子園に出場。投手・三塁手として名をはせる。甲子園では1925年夏1927年夏の2回、全国優勝を達成した。水原と宮武はともに慶應義塾大学に進み、チームメートとして、また、先輩・後輩の関係が続いた。慶應時代は六大学野球のスター選手(三塁手、投手)として人気を博し、春秋通算で5度のリーグ優勝。しかし、「リンゴ事件」の他、麻雀賭博検挙され、野球部を除名された。打者としてリーグ通算63試合出場、193打数48安打、打率.249、0本塁打、24打点。投手として通算30試合登板、13勝8敗。野球部は除名処分となったものの、水原はのちに慶應義塾大学の慶應スポーツ新聞会が発行している学生新聞「慶應スポーツ」の題字を担当している。水原と三原の銅像

早稲田大学三原脩とは、プロに進んで以降もライバルであり、ともに監督として日本シリーズを戦った。特に1956年から1958年にかけて、3年連続で水原率いる巨人と、三原率いる西鉄が日本シリーズで対戦、「巌流島の対決」と呼ばれた(詳細は後述)。1931年6月14日早慶戦2回戦に登板した際には、三原に満場の度肝を抜くホームスチールを成功されている。

水原は、1931年1934年の大リーグ選抜来日時には全日本チームのメンバーに選ばれた。1936年秋に巨人に入団すると、前川八郎に代わって三塁手のレギュラーとなる。以降、二番または三番の上位打線を打ち、1937年秋季リーグでは打率.290、31打点といずれもチーム2位を記録した。また、沢村栄治が応召で退団した1938年には秋季リーグで投手も務め、スタルヒンに次ぐ8勝(2敗)を挙げ、防御率1.76とリーグ2位に付けた。1939年からは主将を務め、1940年ベストナイン1942年には応召によってシーズン途中の8月で途中離脱したにもかかわらず、人望があったということで最高殊勲選手に選ばれている[2]

戦争ではアジア大陸に渡り、シベリア抑留を経験。1949年7月20日舞鶴港に帰国。4日後の10:30に東京駅に列車で到着したその足で後楽園球場に行き、そこで行われる巨人対大映戦(ダブルヘッダー)の試合前、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」の言と共に帰還をファンに報告する。水原は既に40歳になっていたが、ファンからの水原のプレーを見たいとの声を受けた読売本社からの要請を受けて、現役に復帰する[3]。しかし、シベリア抑留中に極度の栄養失調に陥っていたこともあり、衰えは隠せず復帰したシーズンは公式戦には出場せず、二リーグ制となり、監督に就任した1950年は兼任監督となったが、わずか7試合の出場に留まった。
読売ジャイアンツ監督巨人監督時代。右は川上哲治(1956年)

1949年シーズン終了後、巨人選手たちが三原監督に対する排斥騒動を起こし、その流れに押され12月31日に監督に就任することが発表された。1949年にチームを戦後初優勝に導いた三原は総監督に異動となる[注釈 1]。これは三原の水原への扱いに対して不満を持っていた選手の大半がクーデターを起こして、事実上指揮権を奪ったというのが定説[要出典]となっている。水原自身はこの謀議にはかかわっておらず、「優勝に導いた監督が辞めさせられるのは筋が通らない」と監督就任に反対していたという。

選手兼任監督だった1950年は3位に終わるが、1951年から1953年までリーグ3連覇・日本一となり、巨人の「第二期黄金時代」を築く。選手には川上哲治千葉茂与那嶺要広田順別所毅彦ら名選手が揃っていた。しかし、1954年は杉下茂擁する中日ドラゴンズにペナントを奪われて2位となり優勝を逃している。

この間、水原の監督就任4年目にあたる1953年からユニホームに黒とオレンジのチームカラーを導入した(MLBニューヨーク・ジャイアンツを参考にしたもの)。

再び独走でリーグ優勝を達成して臨んだ1955年の日本シリーズは南海と4度目の対戦になった。巨人は第1戦に勝利したが第2戦から3連敗を喫し、シリーズで初めて王手をかけられる。水原は第5戦に当たって、捕手を広田順から藤尾茂へ、二塁手を千葉茂から内藤博文へ、左翼手を樋笠一夫から加倉井実へと若手選手を抜擢する賭けに出ると、これらの選手が活躍して3連勝して逆転日本一を達成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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