水前寺清子
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水前寺 清子
出生名林田 民子(はやしだ たみこ)
別名チータ
生誕 (1945-10-09) 1945年10月9日(78歳)
出身地 日本熊本県熊本市中央区
学歴洗足学園中学校・高等学校卒業
ジャンル演歌歌謡曲
職業歌手女優
担当楽器歌唱
活動期間1964年 -
レーベル日本クラウン
(1964年 - 1980年、1989年 - )
RVC→BMGビクター[注釈 1]
(1981年 - 1988年)
事務所水清企画
公式サイトchita365.net

水前寺 清子(すいぜんじ きよこ、1945年(昭和20年)10月9日 - )は、日本の女性歌手女優。本名:林田 民子(はやしだ たみこ)。身長158cm、血液型O型。
人物

熊本県熊本市中央区子飼商店街で生まれ、小学校まで同地で過ごす[1]熊本市立碩台小学校洗足学園中学校・高等学校卒業。

芸名の水前寺は故郷・熊本市の水前寺成趣園から[2]、清子は熊本ゆかりの戦国武将・加藤清正からそれぞれ取られている。愛称の「チータ」は、小柄だった水前寺を作詞家の星野哲郎が「ちいさなたみちゃん」と呼んだことに由来する[3]。動物のチーターとは直接の関係はないが、着物の柄などにチーターの衣裳を用いることがある。

過去には長年にわたってサンミュージックプロダクションに所属していた。

見得を切りながらの歌唱は「んーにゃっ!」という語尾ひねりによって物まねされることが多いが、本人の癖はそれほど強くない。しかし、自らの物まねを意識してあえてひねることもある。

15歳時に出場した「コロムビア歌謡コンクール」に出場し2位になる[2]。そのときに星野哲郎が水前寺に声を掛けたことが後のデビューのきっかけになった。その後、歌謡コンクールを主催したコロムビアで11回もレコーディングをしたものの、レコードデビューすることはできなかった[4]。そこで、水前寺はクラウンレコードに移籍し、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を畠山のキーのままで「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更した上で念願のデビューを果たした[2][5]

1970年からは民放ドラマ史上最高の視聴率56.3%を記録したTBSのドラマ『ありがとう』に主演し[2]山岡久乃演じる母と娘(水前寺)の日常生活、石坂浩二との恋を演じた。プロデューサー石井ふく子はこのドラマを構想以来、水前寺がTBSに歌の仕事に来るたびに局内の女子トイレで待ち構えて口説き、歌手しかやらないという水前寺をついに出演させた[6]。しかし水前寺が歌手活動に専念したいとの意向で第3シリーズをもって降板し、第4シリーズは主演が佐良直美(母親役は京塚昌子)に交代となった。

1994年にサントリーフーズより清涼飲料水C.C.レモン」が発売となり、そのCMソング「C.C.レモン」(商品と同名タイトル)を歌ったことで話題になる。

プロサッカークラブのロアッソ熊本応援イメージソング 「HIKARI ?輝く未来へ?」を歌った縁から、ロアッソのファンであることを自ら公言している。

NHK紅白歌合戦』には1965年(16回)から1986年(37回)まで22回連続出場していた[2]。その内紅組の司会を4回務めたことがあり、1960年代後半 - 1980年代にかけて、紅組内ではムードメーカー的存在であることが多かった。トリも1983年(第34回)に1度務めている。全盛を極めていた時代の紅白の象徴的な歌手であり、様々なエピソードが残されている(詳細は後述)。

また、健康日本21推進ウオーキング実行委員長、社団法人日本ウオーキング協会理事の役職も務めており、本業よりもそうした方面での活動も多くなっている。

2011年6月14日に広島で行ったコンサートでステージ中央の階段から落ち、左ひざをはく離骨折する大けがを負った。当日はそのまま公演を続けたが、翌15日に病院で診察を受けたところ、左ひざの骨折だけでなく、じん帯損傷も判明。担当医には「治るまでかなりの時間がかかる。絶対安静」と言われたという。自身のブログでは「大丈夫です。何とかいつものように、あちこちと動けるように努力してま?す。あまり心配しないでください」とつづっている。

これまでに制作した衣装や着物などを自宅内に全て保管しており、ごみ屋敷状態になっていると、2015年10月5日放送の『私の何がイケないの?』で紹介され、捨てずに整理する方法を提案されてから総勢13名が作業にあたり綺麗に片付いた[7]
略歴

前史 - 水前寺の父、林田壽は熊本市内で化粧品・洋品店を経営していており、家政婦を何人も雇うほど裕福な環境であった。歌が得意で、のど自慢やコンテストに出場していた民子をいつしか「歌手にしてやりたい」と思った父は、日本舞踊やバイオリンなどの習い事をさせた。しかし、1957年の冬、過大投資が祟って事業は破綻。一家は夜逃げ同然に「
あさかぜ」で上京。八畳一間の部屋で親子だけの生活を始める。父は精肉店で働き、母は内職で家計を支えた。裕福だった熊本時代から一変し、生活に余裕はなかったが、父は娘を歌手にする夢を捨てずに音楽を続けさせた[8]。民子はその期待に応えようと努力を惜しまなかった。

1960年 コロムビア歌謡コンクールに出場。2位入賞。作詞家の星野哲郎にスカウトされる。

1964年10月15日 「涙を抱いた渡り鳥」でデビュー。

1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1986年まで22回連続出場。

1968年三百六十五歩のマーチ」が100万枚の大ヒット。翌1969年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会入場行進曲にも採用となる。

1969年 「三百六十五歩のマーチ」で第11回日本レコード大賞大衆賞受賞[9]

1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS)主演。

1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞日本作詩大賞に入賞。

1985年 つくば万博での公演に音楽家の小松明がバックバンド兼指揮者として参加。まもなく交際を始める。

1989年 小松との結婚を発表。同年2月28日、水前寺公園の中の出水神社で挙式。小松が水前寺の個人事務所の社長に就任。

2000年 熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。

2005年 期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、聖飢魔IIの演奏で「三百六十五歩のマーチ」をデーモン閣下と歌唱。

2017年 第1回ももいろ歌合戦に出場、以後2023年に至るまで毎年出場を続けている。

2018年 自身が司会を務める『人生は三百六十五歩のマーチ』が放送開始。水前寺の55周年をお祝いするという形で親交のあるゲストが毎週出演し、水前寺との思い出を語るという集大成の番組である。

2019年 旭日小綬章受章[10][11]

2020年 デビュー55周年を祝いBSフジで司会を務める『人生は三百六十五歩のマーチ』の中でチータ55!と副題をつけたタイトルで2時間の特番が放送された。それを祝いゲストにデビュー当初から親交のある歌手の美川憲一山田太郎が出演。故郷である熊本ロケも行われた。

2020年12月4日、離婚していたことが報じられた[12]。小松は事務所からも退き、水前寺が社長に就任したことも明らかになった[8]

NHK紅白歌合戦でのエピソード

水前寺は1960年代半ばから1980年代まで紅組トップバッター2回、紅組トリ1回、紅組司会4回、1981年よりチームリーダー制が敷かれてからは紅組リーダー4回(1983年は盟友である同期デビューの都はるみにその座を禅譲している)をそれぞれ務めた。

1968年、第19回紅白で初の紅組司会を務める。冒頭の選手宣誓で「昭和43年」を「昭和33年」と言い間違えた。またこの頃は、着流しやパンツルックなどボーイッシュな衣装でテレビに出ることが多かったが、芸者姿で司会に挑んだ。水前寺は「当日ドキドキで精神安定剤を飲んだらスーッと気持ちが落ち着いてきたから、『こりゃいいや』と思ってもう1錠飲んだらヘロヘロになっちゃって。選手宣誓の時、昭和43年を34年と言っちゃった」と話している[2]

1971年、2回目の紅組司会を務めたが、紅組トリおよび大トリとなった美空ひばりの曲紹介を拒否したと噂されたことで、後日謝罪の記者会見を行い波紋を呼んだが、実際は、大トリだけは宮田輝が司会をするということが決まっていた(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}フジテレビ系「ダウンタウンなう」に出演時[いつ?]の発言より)。

翌1972年の紅組司会は佐良直美に変更となるも、その翌1973年は水前寺が同年3回目の紅白司会を務めている。なお1972年では紅組の「応援団長」を務めたが、この時白組の応援団長を務めたのは、『NTV紅白歌のベストテン』で初期に共演があった堺正章だった。

1979年、4回目の司会を務めた紅白では、歌手としてよりも司会の方に重点を置く意思で司会に臨んだ。特に初出場で緊張の極度にいる歌手に対しては激励の言葉をかけ続けたり、各歌手のいい部分を最大限すくい上げようと司会者面談をいつも以上に念入りに行うなど努力を惜しまなかった。

1982年の入場行進は、それまでの五十音順での行進という鉄則を破って、意表をつく組み合わせでの入場となった。この時に同期の都はるみと共に入場した相手は当時のトップアイドル、近藤真彦田原俊彦だった。

1983年、「あさくさ物語」で出場19回目にして初の紅組トリを務める。しかしこの年、紅白の直前に最大の理解者であった父が死去。紅組トリでは終始涙を浮かべて歌い上げた。紅組司会の黒柳徹子は「天国のお父ちゃん、聞こえますか?」と曲紹介時に述べた(黒柳の言葉を聞いた水前寺は父親に届いたと思ったという)。なお、水前寺は11月20日の時点で紅組トリ担当を知らされていたが、関係者や親族にも明かしてはならないと、NHKとの取り決めにより、病床の父にもその事実を告げることができなかった。それが心残りとなっていると言い、この事実を父親に告げていれば、紅白本番の時まで父親は生きていてくれたのかもと思っていると話す[13]。そして同年から1985年まで設けられた個人賞「銀杯」を獲得している(優勝チームの個人賞は「金杯」で、白組の沢田研二が獲得)。

1987年、紅白改革の嵐に巻き込まれる形で、出場22回にして落選という挫折を味わう。その際、番組側から水前寺に対し「辞退した」と発表することを許可されたが、「(落選という)結果を正面から受け入れようと思いました。辞退は逃げだと思います」とこれを拒み落選をそのまま公表した。1990年代に入り、紅白でも懐メロが本格的に解禁されて再出場の機会は幾度となくあるものの、落選後は1度も出場できていない。紅白が50回を迎えた時のインタビューでは「今ではテレビで見る立場になってしまいましたが、お声がかかったり時代の流れに乗ればいつでも出るし待ってます」とコメントしている[13]。ただし、紅白の事前番組(『あなたが選ぶ思い出の紅白・感動の紅白』など)にはコロッケらとほぼ毎年出演している。また、2009年11月に読売テレビ制作・日本テレビ系列『情報ライブ ミヤネ屋』にゲスト出演した際、紅白に初出場を果たした歌手が記者会見で「親孝行になった」と発言する姿が印象的だと話し、紅白を「若い歌手に是非出てほしい番組」と推奨していた。

自身のブログでは、「紅白はヒット曲が出ない限りは出場しない。今は半卒業状態」だと綴っていた[いつ?]。


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