水井康雄
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水井 康雄
誕生日
1925年大正14年)5月30日
出生地 日本 京都市
死没年2008年平成20年)9月3日(満83歳没)
死没地 フランスアプト(Apt)
国籍 日本
芸術分野石の彫刻、メタグラフィ
教育神戸工業専門学校(現神戸大学)機械学科
東京芸術大学彫刻学科
パリ国立美術学校(エコール・デ・ボザール
代表作《余韻の化石》日本
《マクロコズムとミクロコズム》フランス
《愛の鍵》ドイツ
《笑いのこだま》アメリカほか
受賞芸術文化勲章コマンドゥール(フランス1985年
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水井 康雄(みずい やすお、1925年大正14年)5月30日 - 2008年平成20年)9月3日)は、パリを拠点とし国際的に活躍した、日本の石の彫刻家。主に、抽象的な形を志向し、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした[1]
経歴
少年 青年期 戦争

京都市に生まれる。父親は、当時外車を所有し運転するハイカラな人物であった。幼少の時から絵が好きでデッサン等に秀でていたが、当時時代の最先端であった機械工業に日本の未来を夢みて1944年(昭和19年)神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)機械学科に入学する。第二次世界大戦中は、川崎車両(現川崎重工業車両カンパニー)に学徒動員され鋳造を學ぶ。戦後を明石の川崎航空動員中に迎えた。神戸工業専門学校1947年(昭和22年)を卒業後、戦争なき世界、芸術の未知を新たに志し、東京芸術大学彫刻学科に入学する。彫刻への動因のひとつには、工業専門学校の卒論で「美術鋳造 - 大仏の鋳造 - 」を主題にしたことだと語っている[2]
滞仏

1953年(昭和28年)東京芸術大学彫刻学科を卒業。同時にフランス政府給費生としてパリに留学[1]以後83歳に至るまでの生涯にわたりフランスで生きることになる。1953年(昭和28年)- 1958年(昭和33年)、パリ国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に學ぶ[1]。 1954年 (昭和29年)-1958年 (昭和33年)彫刻家アペル・レ・フェノザの助手を務める。学校に行きながらアトリエに通っていた水井は、後日こう語っている。「彼は私に毎日一点、粘土で小品を作って待つ事を義務づけた。数ヶ月後に私は自分の創作力の空白に絶望を覚えた。しかし、何時もギリギリにその一点が生まれた。 この後、私の人生がシンポジユムや1%アートの大作連続に変ったとき小品作の経験が創作の原動力になった事を感謝している。」と[3][4]

偶然の出会いもあった。1955年(昭和30年)パリオペラ界隈のギャラリーR.Volneyで在仏日本人美術展が開かれたとき、『蛙』という作品について、そこに訪れていたジャン・コクトーから高評価を受けたことがある[5]
日本とフランスのオリンピック

水井は、1964年東京オリンピックと1968年フランスのグルノーブルオリンピックに石の彫刻大作を制作している。日本における《余韻の化石》Les murs des fossiles[1]と、フランスにおける《マクロコズムとミクロコズム》Macrocosme et Microcosmeである。

《余韻の化石》Les murs des fossiles(花崗岩/2mx 93x 0.3/国立代々木競技場/丹下健三依頼)。)[6]

国立代々木競技場は、丹下建三の設計で1961年から1964年にかけて東京の代々木公園にたてられたスポーツ施設である。その回廊を飾る巨大なアブストラクトの壁面レリーフは、全長93mという巨大なものであり、35cm -1m82cm x 60cm x 30cmの408個の御影石のブロックから構成されている。この御影石は、岡山県の「石の島」と呼ばれる北木島のもので、総重量は160トンにも達する。水井は1963年(昭和38年)10月に丹下から依頼を受け1964年(昭和39年)2月から構想に入り、4月から7月まで北木島で10人の助手とともに粗彫りをしそれを東京に運び、8月末に完成させた。9月には外国のプレスに紹介された。

「化石の余韻」は、水井の原風景であり、人生経験や自然との深い関わりの中で生きる心象のレリーフである。石のなかから掘りだした- 旅 -炎 - 重さ - 香り- 執念 - 水 - 智慧 - 音 - 時 - 光 -の10のイメージである。この作品も作者の常の仕事にあるよう全行程において手作業を貫き、機械を全く使わず、全部が/トンガリノミ、クシノミ、大小のハンマーで作られた巨大レリーフ作品であった[7]

《マクロコズムとミクロコズム》Macrocosme et Microcosme(石/13mx 81x 0.4/グルノーブルオリンピック選手村)。

グルノーブルの冬季オリンピックの選手村の教会にいたる参道のためのレリーフ壁。最大と最小の世界を表現した。最大は太陽、森、山、川など個を超えた発想、最小は人間の内面の葛藤という個からの発想であり、<自然と人間>の世界を表現している。[8]当時シャルル・ド・ゴール政権のもと、芸術への造詣が深いアンドレ・マルロー文化相の訪問を受けている。

アンドレ・マルローの『反回想録』(新潮社、1977)の翻訳者、竹本忠雄からマルローの事を聴いていたが、僥倖にもグルノーブルの彫刻壁の訪問を受けた[9]
1%アート

フランス政府では、公共建築物の建築費の1%を芸術作品にあてるという法律が1951年(昭和26年)に施行された。現在もそれは継続し拡大されている。この公共の芸術のための彫刻家の選定は厳しく、すでに選考された彫刻家のプランによって文化省の選考委員が協議して決定される。水井は、1968年(昭和43年)から1982年(昭和57年)にかけて、この1%アートの枠である石彫刻の大作をフランス全土において30作品実現をする。[10]水井にとって第一回目のフランス文化省からの指名は、ボルドー大学法学部(1968年)であった。ここでは《泉の化石》を設置[1]。また、この依頼は、グルノーブル冬季オリンピックの彫刻が評価されてであった。他の作品《開く壁》Le mur qui s'ouvre(コンクリート/4,5m x 13 x 1,4/フランス、ランブイエ高校/1972)は、はじめてのコンクリート作品であり新たな挑戦があった。造形の構想は大量の発泡スチロールを電熱線で切りだしながらおこなわれる。まるで光を招待するかように、頂に大きな漏斗状の穴を作り影の面に光を導こうとした作者の意図がうかがわれる。[11]それは強靭な石と柔軟な感性が素材の中にびっしりと凝固しているようで、ヨーロッパの伝統にない、東洋の幽玄性が感じられると評価されるが[12]、水井自身は「長いことパリでヨーロッパを吸収し、それが飽和状態になった時、これでは自分(日本)がなければ太刀打ちできないと思った。それで東洋を勉強し直し仏典なども随分読んだ。」といっている[13]
シンポジウム愛の鍵

彫刻シンポジウムとは、単なる鑑賞用、装飾用、あるいは記念像的意味を離れて都市美の一翼を担うものとして、新しい方向と意義をもって開かれた活発な動きである。同じ場所で、同じ材料によって互いにそれぞれの作家の手腕を競うところに価値と意味があった。シンポジウムという名のもとでの彫刻競演の集いは、1959年(昭和34年)オーストリアウィーンのサン・マルガレーテン(ドイツ語版)採石所で最初に実現した。水井の参加は、第2回のオーストリア(1960年)からである。この時はじめて4mの大きな石を刻むことによって、石の魅力に取り憑かれたと語っている。1962年(昭和37年)に開かれた西ベルリンのシンポジウムでは、[14]「東に壁を、西に彫刻を作る」とのうたい文句で開催への協力と制作に小一年を費やした。その時の作品《愛の鍵》Clef d'amour(石/4m x 0,9 x 0.6)は、ベルリンの壁を前にしてベルリン広場において制作され、ドイツ批評家章を獲得した。[15]水井はいう。


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