水中翼船
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半没型水中翼船 「金星」(大和ミュージアム全没型水中翼船 「疾風」(神戸海洋博物館・現在は解体済)

水中翼船(すいちゅうよくせん)、または、ハイドロフォイル(Hydrofoil) とは、推進時に発生する水の抵抗を減らす目的のため、船腹より下に「水中翼」(すいちゅうよく)と呼ばれる構造物を持った
概要

いわゆる排水型と呼ばれる、喫水線以下の船体が水中に沈み込む方式の船は、速度に関係なく浮力を得られるが、水による大きな抗力から逃れられない。また抗力は速度二乗倍で増加し、プロペラスクリュー)推進の場合は機関の出力を大きくしても40ノットあたりで頭打ちとなる。また、全長に対し全幅を極端に狭くする必要もあり、船の最大の利点でもある積載性をも殺ぐ結果となる。そこで、さらなる高速化を求めた結果、水との接触面を極端に少なくでき、抵抗を揚力に結びつける効果の高い水中翼船が開発された。

低速で水上を航行する際には船体を水面下に浸けて航行するが、高速航行をする際には、迎角のつけられた水中翼から得られる揚力で海面上に船体を持ち上げ、水中翼のみが水中に浸っている形になる。

水中翼船には構造や推進方式が様々あり、構造上の分類では、高速航行時に水中翼の一部が水面上に出る半没翼型水中翼船と、水中翼の全てが水面下にある全没翼型水中翼船とに大まかに分けられる。全没翼型水中翼船には、単胴型と双胴型がある。単胴型の全没翼型水中翼船の代表的なものにアメリカボーイング社(日本では川崎重工業(現在は川崎重工業船舶海洋ディビジョン)の子会社、川重ジェイ・ピイ・エス株式会社がライセンスを取得)の「ジェットフォイル」がある。また、双胴型の全没翼型水中翼船には、三菱重工が開発した「スーパーシャトル400」があり、「レインボー2」が隠岐汽船に就航していた(2013年11月30日に退役)。

全没翼型は半没翼型と比較して安定性に劣るとされている。これは、「半没翼型の場合は特に水中翼の制御をしなくてもある程度の振動を伴いつつではあるが安定した浮上がなされるのに対し、全没翼型ではそのような自律的フィードバックが期待できないこと」「半没翼型に設けられている水中翼には大きな上反角が付けられ、横揺れに対する復原性が確保されていること」による。但し、近年ではコンピュータによる水中翼の能動的な制御技術が確立されたことにより、全没翼型でも安定性を確保できるようになっている。

全没翼型の安定性が確保されると、後述のような半没翼型のデメリットが浮き彫りになったこともあり、敢えて半没翼型を選択するユーザーが少なくなり、現在では全没翼型が主流となっている。

この他に、日立造船の「スーパージェット」等に見られる、双胴船体の間に前後各1枚の全没型水中翼を装備し、双胴船の2つのハルの浮力と全没型水中翼による揚力の両方よって船体を支持するハイブリッド船型を採用した翼付双胴船などがあるが、厳密には全てを水中翼の揚力で支持する水中翼船には含まれないであろう。「スーパージェット」の場合、船体重量の約8割を水中翼の揚力により、残りの約2割を船体の浮力により支えている。推進方式では主としてプロペラによるものと、ウォータージェット推進式によるものがある。
人力水中翼船

人力でのスクリュー駆動による水中翼船は、オール等による手漕ぎ船よりも速い事が明らかになった事から[1]、競技等の目的で人力や風力[2]の水中翼船が製作されるようになった。
ヨット

近年はヨットにも、高速性能を追求した結果水中翼を採用したものが現れている。2017年第35回アメリカスカップでは、多くのチームがヨットのダガーボード(一般的なヨットにおけるセンターボード)を水中翼として利用するようになり[3]2021年開催の第36回アメリカスカップでは3個のT字型フォイルを装備した「AC75」(英語版)が統一レギュレーションとして採用された[4]。外洋を航行するヨットでもフォイル艇が主流となっており、2016年のヴァンデ・グローブでは上位をフォイル艇が占めた[5]
歴史マッジョーレ湖で試験中のフォルラニーニの水中翼船(1910年)
プロトタイプ

水中翼で水の抵抗を減らすというアイデアは19世紀半ばから知られていたが、それが有効になるほどの推進方法がなかった。20世紀に入って相次いで水中翼船のプロトタイプが製作されるようになった。

1899年から1901年にかけて、イギリスの船舶設計者ジョン・アイザック・ソーニクロフトが、弓形の水中翼をつけた船の設計を研究した。1909年ソーニクロフトの会社で弓形水中翼と60馬力(45 kW)のエンジンを装備した全長6.7 mのボート Miranda III を建造。その後継機である Miranda IV は35ノット(65 km/h)を記録した[6]

イタリアの発明家エンリコ・フォルラニーニ1898年から水中翼船の研究を開始し、1906年にはマッジョーレ湖での試験航行で68 km/hを記録した[7]HD-4

アメリカ人で水中翼船を研究していたウィリアム・E・ミーチャムは、1906年3月のサイエンティフィック・アメリカン誌上で水中翼の基本原理を解説した。アレクサンダー・グラハム・ベルは水中翼船を重要な発明と考えており、この記事を読んでから水中翼船のスケッチを描き始めた。1908年夏、彼はフレデリック・ウォーカー・ボールドウィンと共に水中翼船の実験を開始した。ボールドウィンはフォルラニーニの成果を研究し、その設計に基づいた模型での試験を開始した。その後ボールドウィンとベルは軍用水中翼船の開発に関わることになる。1910年から1911年にかけてベルとボールドウィンは世界旅行に出て、イタリアでフォルラニーニに会った。彼らはマッジョーレ湖上でフォルラニーニの水中翼船に試乗している。ボールドウィンはこのときのことを、飛んでいるように滑らかな乗り心地だったと述べている。ノバスコシア州バデックに戻ると、様々なデザインを試し、最終的に HD-4 を完成させた。ルノー製エンジンを採用して最高速度87 km/hを達成し、加速も素早く、操縦が容易で安定性も良かった。ベルがアメリカ海軍にこれを報告すると、260 kW(350 馬力)のエンジンを2機入手できることになった。1919年9月9日、HD-4は船舶速度の世界最高記録114 km/hを達成。この記録は約10年間破られなかった。HD-4の実物大レプリカがバデックの Alexander Graham Bell National Historic Site に展示されている。
客船としての利用の始まりRaketa型水中翼船Meteor型水中翼船Voskhod型水中翼船

ドイツでは、第二次世界大戦以前から戦中にかけて、フォン・シェルテル男爵が水中翼船を開発していた。戦後、シェルテルのチームはソビエト連邦(ソ連)に連行された。しかしソ連ではドイツ人が高速船の建造に関われなかったため、シェルテルはスイスに移り、そこでシュプラマル (Supramar) という会社を創業した。1952年、シュプラマルは世界初の商用水中翼船 PT10 "Freccia d'Oro"(金の矢)を作り、スイスとイタリアの国境線上にあるマッジョーレ湖に浮かべた。PT10は半没型で乗客32名を乗せ、35ノット(65 km/h)で航行できた。1968年バーレーン生まれの銀行家フセイン・ナジャディがシュプラマルを買収し、日本、香港シンガポールイギリスノルウェーアメリカ合衆国に営業を拡大した。アメリカのジェネラル・ダイナミクスライセンス提供を受け、国防総省スーパーキャビテーションについての海軍の研究開発プロジェクトを委託した。日本では日立造船がシュプラマルからライセンス供与を受けた。他にもOECD各国の海運業者や造船業者がライセンスを取得した。


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