水上勉
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河出書房新社『文藝』第2巻第10号(1963)より
ペンネーム水上 勉(みずかみ つとむ)
誕生1919年3月8日
日本福井県大飯郡本郷村(現:おおい町
死没 (2004-09-08) 2004年9月8日(85歳没)
日本長野県東御市
墓地駿東郡小山町富士霊園文学者の墓
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴立命館大学国文科中退
活動期間1947年 - 2004年
代表作『雁の寺』(1961年)
五番町夕霧楼』(1963年)
越前竹人形』(1963年)
飢餓海峡』(1963年)
一休』(1975年)
『金閣炎上』(1979年)
『良寛』(1984年)
主な受賞歴日本探偵作家クラブ賞(1961年)
直木三十五賞(1961年)
文藝春秋読者賞(1965年)
菊池寛賞(1971年)
吉川英治文学賞(1973年)
谷崎潤一郎賞(1975年)
川端康成文学賞(1977年)
毎日芸術賞(1984年)
日本芸術院賞恩賜賞(1986年)
文化功労者(1998年)
親鸞賞(2002年)
正四位旭日重光章(2004年、没時叙位叙勲)
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水上 勉(みずかみ つとむ[1]1919年3月8日 - 2004年9月8日)は、日本小説家福井県生まれ。社会派推理小説飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら[2]宇野浩二に師事[3]、社会派推理小説で好評を博して[4]、次第に純文学的色彩を深め[5]、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得[6]。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した[7]。作品の映像化も多い[8]日本芸術院会員、文化功労者位階正四位
生涯
生い立ち

福井県大飯郡本郷村(現おおい町)の、佐分利川沿いの集落で棺桶造りや宮大工をしていた家に生まれ[9][10][要ページ番号]、5人兄弟の次男として育った。生家は乞食谷(こじきだん)と呼ばれる谷の上にあり、そこは死体を埋める谷のとば口で、一家は地元の素封家の所有する薪小屋に住んでいた[11][要ページ番号]。8歳の時には北丹後大震災に逢い、家から茶畑に避難する経験をした。当時京都臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院の住職になった山盛松庵が、若狭で酒井家賞を受けた子供から小僧をとろうとして選ばれ、貧困もあって、9歳の時に京都の伯父の元に送られ、10歳の時に正式に瑞春院に入った[11]。(この時、寺に住み込んで画の練習をしている南画家の服部二柳を見ている)得度して水上集英に改名、室町小学校を卒業し、柴野中学に通う[12]

しかし修行生活の厳しさに13歳の時に出奔。その後、連れ戻されて等持院に移り、僧名承弁に改名。1933年旧制花園中学校(現・花園中学校・高等学校)3年に編入、等持院の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持った。等持院住職の二階堂竺源は衣笠貞之助と親しく、等持院には東亜キネマの撮影所があって、撮影の手伝いもさせられ、これらの経験がのちに『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。また等持院に立ち寄る宮嶋蓬州や錦織大宗にも接した。中学4年の時に『都新聞』に投稿するようになり、卒業後は寺を出て伯父の下駄屋で働き、むぎわら膏薬の西村才天堂の行商を経て、1937年昭和12年)、立命館大学文学部国文学科に入学、同年に府庁で満蒙開拓義勇軍への勧誘を行う仕事に就いた後、満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡るが、翌年結核を患い、帰国療養として若狭に戻る。文学書を読み漁り、水上努の名で『月刊文章』『作品倶楽部』に投稿、『月刊文章』で選外佳作となって初めて文章が活字になった。

1940年に、父が駒込勝林寺を蓬莱町から染井へ移築する作業や、動坂目赤不動(南谷寺)建築のために、東京で仕事をしていたのを頼って上京したが、父はすぐに京都に帰ったため、『作品倶楽部』選者の丸山義二を頼り日本農林新聞に入社[13]。ここで農民文学懇話会の作家たちも間近に見る。また丸山の紹介で同人誌「東洋物語」に参加。そのメンバーの三島正六の紹介で『報知新聞』に入り、そこで和田芳恵の知遇を得て学芸社に移り、文芸書出版の仕事に就き、海音寺潮五郎武者小路実篤も担当した。さらに印刷会社を経て三笠書房に勤める。この頃「東洋文学」は、情報局の命令で「作家精神」などと合同して「新文芸」となり、その編集にたずさわった。1943年に映画配給会社に移るが、東京都からの助成金を得て郷里に疎開、大飯郡青郷国民学校高野分校に助教として勤める。結核のために第二国民兵役だったが1944年には召集を受けて、京都伏見深草中部43部隊の輜重隊に所属。その後召集解除となって青郷国民学校に戻り、終戦を迎えた。
作家デビュー

戦後9月に学校を退職して東京へ出て、神田で妻の叔父が経営する工場に間借りする。1946年に虹書房を興し、学芸社の同僚だった山岸一夫とともに雑誌『新文藝』を創刊、石川啄木樋口一葉などの作を刊行し、水上若狭男の筆名で短編小説を掲載した。和田芳恵が『日本小説』を創刊する際に、誌名のアイデアを出したのも水上だった。この頃、信州松本に疎開中の宇野浩二に執筆依頼に行き、宇野がかつて「水上潔」の変名を使っていたことで知遇を得、宇野が東京本郷に移ってからも腱鞘炎を患っていた宇野の口述筆記を長く行なうようになって、文学の師と仰ぐようになり、『苦の世界』なども刊行する。また宇野に巖谷大四を紹介されて、生活のためにあかね書房や小峯書店で童話や少年少女もの、童話の創作や、「家なき子」「きつねの裁判」などの翻訳ダイジェスト、偉人伝などを執筆した。『新文藝』は資力や印刷事情のために3号で休刊。1947年に虹書房は解散し、一時文潮社の嘱託として出版企画に参加、ここで田中英光と親しくなった。

北海道の『大道』という雑誌に書いた自身の日常そのままを短編にした「雁の日」で宇野に褒められて発奮、ついで1948年に文潮社から長編の身辺小説『フライパンの歌』を刊行し、宇野浩二の序文や「昭和の貧乏物語」という文句の広告もあって良い売れ行きを示した。これに大映が映画化を申し込み、5万円の手付金をもらったが、予定していた監督の島耕二新東宝に移籍したため企画は中止された。


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