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水上はるこ(みなかみはるこ、1947年8月16日 - )は、元雑誌編集者、音楽評論家、翻訳家。本名非公開。目次 愛媛県生れ、山口県下関市で育つ。1966年、山口県立下関南高等学校卒業後[1]、新興楽譜出版社(現シンコーミュージック・エンタテイメント )に入社。数カ月の研修を経て音楽雑誌「ミュージック・ライフ」編集部に配属された。そのタイミングで来日したビートルズのコンサートをすべて見て、コンサート評を書いた。当時の編集長は星加ルミ子だったが、水上はボブ・ディランやジャニス・ジョプリンなどを好み、星加編集長の「そんな記事を書いても雑誌は売れない」というポリシーと対立し、3年後に一度、会社を辞めている。高校時代にはフォーク・ソングにも興味をもち、ギターを弾いて歌っていた。その頃、2歳年下の中川五郎と文通しており、1968年8月、京都・山崎の宝積寺で催された「第3回フォークキャンプ」で会う。この時、遠藤賢司とも会っている。 1971年12月、今野雄二(故人)からの電話があり、当時の「平凡パンチ」や「an an」の編集者が企画した英国旅行に空席があることを知らされ初の海外旅行をする。大晦日にロンドンの「マーキー (Marquee Club
1 経歴
2 出版
2.1 著書
2.2 翻訳
2.3 小説
2.4 監修
2.5 連載
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
経歴
当時は海外に行ってコンサートを見る音楽評論家はまだ少なく、帰国すると「平凡パンチ」「MCシスター」などにもアメリカ・レポートを書いた。
フリーランスとして3年間仕事をしていた時期、既成の音楽雑誌に満足できない若者たちと当時「ミニコミ」と呼ばれていた冊子「Revolution」を発行し、そのグループに渋谷陽一もいた[2]。
フリーランス時代の活動に注目した新興楽譜出版社の草野昌一社長に「また会社に戻る気はないか」と説得され再入社。「ミュージック・ライフ国際版」「プラスワン」などのサブ・マガジンを編集していた。1974年1月、ボブ・ディランがザ・バンドと共にカムバック・コンサートをするのを取材したい、と草野社長に申し入れたが「ボブ・ディランの記事を書いても売れない」とまたも却下される。しかし「今年の冬のボーナスは出さないから、それでも行きたいのなら」と妥協案を出され、シカゴでボブ・ディランを、サンフランシスコでジ・オールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートを見た。このように、好きなバンドはとことん追いかけるという水上の姿勢は引退後も続いている。
1974年2月、草野社長に「ニューヨークに遊学させてほしい」と申し入れると、給料を払い続けるからアメリカで勉強してこいと許可がおり、ニューヨークに住みはじめる。ニューヨークでは人気上昇中のブルース・スプリングスティーンと出会い、デビュー前の多くのパンク・ミュージシャンと友だちになり、伝説となったキング・クリムゾンのコンサートを見るなど大きな収穫を得た。この時に撮影したトーキング・ヘッズのクリス・フランツ (Chris Frantz)の写真は、2020年に発表された彼の自伝「Remain In Love」に使用されている。
ニューヨーク在住期、テレヴィジョンのドラマー、ビリー・フィッカ (Billy Ficca) と交際。彼がトム・ヴァーレインとルームシェアしていたアパートに住み始め、そこでパティ・スミスと会う。
1975年、星加ルミ子が退社と同時に「ミュージック・ライフ」の編集長に就任、最初(8月号)の表紙をウィッシュボーン・アッシュが飾った。1978年に新雑誌「Jam」の創刊準備のために訪れていたニューヨークで大スターになったブルース・スプリングスティーンと再会し、日本人として初のインタビューをした[3]。
「ミュージック・ライフ」はキッス、エアロスミス、クイーン、チープ・トリック、ウイングスなどを取材し、レコード会社と共にロックスターを多く生みだした。
また、「ミュージック・ライフ」を卒業した音楽ファンのために「Jam」を、ロックを好きになったばかりの若い人たちに「Rock Show」を創刊し、3誌の編集長を兼任した。この頃、取材で知り合ったストラングラーズのジャン・ジャック・バーネルと交際し、彼が極真空手を習いに来日した1978年には水上のマンションに泊まっていた[4]。
1979年2月、渡英の準備のため退社。英国に短期間住みながら「ロンドンに行きたい」というロック・ファン向けの旅行ガイド本を4年間にわたってシンコー・ミュージックから発売し、海外旅行の新しいスタイルを作った。
英語に堪能で通訳を介さずインタビューができることやキャリアをかわれてポール・マッカートニー&ザ・ウイングスの1980年の来日公演のパブリシスト(レコード会社やプロモーターから独立した、ポールのマネージメント会社が指名した広報担当)として仕事をする。しかし、ポールが成田空港で逮捕されたことでインタビューをセッティングする仕事が、急きょホテルオークラにタイプライターを持ち込み、毎日、新聞記事やテレビ・ニュースを翻訳し、リンダ・マッカートニーの通訳担当となった[5]。
80年代にはパリ、ブリュッセル、ロンドンに住み、夏の期間はリュックを背負ってロック・フェスティバルやコンサートを追いかけて、メタリカ、アイアン・メイデン、デフ・レパード、AC/DCなどを見た[6]。
この頃から、日本とレコード契約のないバンドに日本との橋渡しを依頼されるようになり、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、クラムド・ディスク(Crammed Discs|ベルギーのレーベル )、フェティッシュ・レコード(Fetish Records|英国のインディ・レーベル)などの契約を仲介。