水の江瀧子
[Wikipedia|▼Menu]

みずのえ たきこ
水の江 瀧子
1936年男役時代の水の江瀧子
本名三浦 ウメ子→水の江 瀧子
別名義ターキー
生年月日 (1915-02-20) 1915年2月20日
没年月日 (2009-11-16) 2009年11月16日(94歳没)
出生地北海道小樽区(現・小樽市)花園町
職業女優映画プロデューサータレント
活動期間1928年 - 1987年
主な作品
舞台
『タンゴ・ローザ』(1933年) 映画出演
花くらべ狸御殿』(1949年)映画企画(製作)
太陽の季節』(1956年)
狂った果実』(1956年)
テンプレートを表示

水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年大正4年〉2月20日 - 2009年平成21年〉11月16日)は、日本女優映画プロデューサータレント
概要

1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹少女歌劇団、松竹歌劇団)に第1期生として入団。同期に小倉みね子ら。日本の少女歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博した。また、宝塚少女歌劇より早い断髪の男役であった。

1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子長門裕之岡田真澄和泉雅子赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画[注 1]、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。

50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退した。その後は隠居の傍ら、ジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。

出生名は三浦 ウメ子であったが、「ロス疑惑」の後、法的に水の江瀧子を本名とした。以下の経歴部分では、松竹入団までをウメ子、入団後を瀧子と記述する。「水ノ江」や「滝子」の表記も多くあるが、引用部分を除き「水の江瀧子」で統一して記述する。
経歴
生い立ち - 初舞台家族と幼少時代のウメ子(右端)

1915年、北海道小樽区(後の小樽市花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ[1]。出生名は三浦ウメ子[2]。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷(後の東京都渋谷区千駄ヶ谷)、次いで目黒村(後の目黒区)に移り、以後同地で育った[3]。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる[4]活発な少女であった。

1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した[5]。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという[5]。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ -水の江瀧子伝-』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある[6]。初めて東京に楽劇部の支部が出来て女生を募集したとき私も試験委員の一人として思へばターキーを試験したのだつた。その時のターキーがどんな子だつたか、何一つおぼえてゐない。〔中略〕その時の試験委員の連中だつてその時、今日のターキーを見越して採用した人はおそらくあるまいと思ふ。〔中略〕『その頃からターキーにはどつか違つたところがあつた』と云へる程、私はあの頃のターキーについて知るところがない。

入部後は高田雅夫・永井三郎(洋舞)、花柳輔蔵(日舞)、天野喜久代(声楽)、篠原正雄(音楽)に師事しながら10カ月あまりの基礎訓練を受けた[7][8]。芸名は最初「東路 道代(あずまじ みちよ)」であったが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となった[9]。交換した相手は女優の内藤洋子の伯母で、上海でマヌエラという国籍不明のダンサーとして活躍した和田妙子。この芸名は万葉集所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」に由来する[9]宝塚少女歌劇百人一首から芸名をとっていたことに対抗して1期生は万葉集から名付けられた。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり[9]、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった[10]。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子(当時の芸名は「三笠静子」)で、笠置とは後々まで交流が続いた[10]
「男装の麗人・ターキー」へ1930年秋に上演された『サーバント・クラブ』の一場面。左側の瀧子の髪型はまだ普通のボブカットであることが分かる。

1929年11月28日、浅草松竹座で東京松竹単独としての初公演『松竹座フォーリィズ』を上演[11]。1930年5月に東京六大学野球をレビュー化した『松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた[2]。1930年10月、人気が高まりつつあった東京松竹は「松組」、「竹組」の二部制を導入し、瀧子は竹組に所属した[12]。.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}『先生様はお人好し』で断髪した「隣の美青年」役の瀧子。断髪後に撮影されたブロマイド。

翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し、千秋楽の頃には楽屋にファンが大挙して訪れる[13]など大きな反響を呼んだ。当時、瀧子は周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋で待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置を転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子が急遽、劇中の女学生の噂話に出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面が突発的に与えられたものだった[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:165 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef