気賀関所
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地理院地図 Googleマップ 気賀関所 主要街道と気賀関所の位置

気賀関所(きがせきしょ)とは、17世紀初めに江戸幕府本坂通気賀(現在の浜松市北区細江町気賀)に設置した関所である。東海道新居関所の裏番所として本坂通(姫街道)の往来を監視した。目次

1 概要

2 沿革

2.1 関所の設置

2.2 お蔭参りと気賀関所

2.3 関所の廃止


3 監視体制

3.1 要害の町

3.2 関所番

3.3 要害村

3.4 入鉄砲に出女

3.5 犬くぐり

3.6 清河八郎の関所破り


4 関所の廃止と史跡指定

4.1 史跡指定と復興


5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 参考文献

6.1 書籍・論文

6.2 ウェブサイト


7 関連項目

8 外部リンク

概要

気賀関所は、17世紀初めに江戸幕府本坂通気賀に設置した関所である。東海道新居関所の裏番所として本坂通(姫街道)の往来を監視した。旗本気賀近藤氏が関所を監理し、関所手形により「入鉄砲に出女」を取締り、周辺の要害村や新居関所、金指の番所と共同で浜名湖上の通行や「横越し」を監視した。

気賀関所は、全国53箇所に設置された関所のうちで、東海道の新居(今切)の関所と同じく重要な関所と位置付けられ、近世関所は、「入鉄砲に出女」を改めるために設置され、「入り鉄炮」の通関には老中証文が必要であり、気賀関所の監視は、東海道の本道の新居関所と同様に厳格だったとされ、領主でも通過する際には手形を必要とした。

享保15年(1730年)にお蔭参りが流行したときには、都田村では、女中たちの抜け参り[注釈 1]が多かったため、気賀関所の命令を受けて、見張人を街道に沿う村の山へ毎日出したが、それでも抜け参りは絶えなかったとされる[1]

明治2年(1869年)に廃止された。1966年(昭和41年1月27日)に、細江町教育員会により、気賀関所跡の本番所が細江町指定文化財(建造物)と指定された。2014年「気賀関所跡」は本番所の関屋の一部のみが残存している。1990年(平成2年)に細江町(現浜松市)により別地に観光施設「気賀関所」が復元されている。
沿革 気賀関所
関所の設置

関所の設置時期については、「斉藤家文書」により、慶長6年(1601年)に江戸幕府東海道宿駅の制が定めたときに設置されたとする説が一般的とされているが[2][3][4]、気賀の「白井家文書」により、慶長地震よりも後の、慶長17年(1612年)に設置されたとする説、慶安2年(1649年)の「気賀関所茅葺御修復の書付」により、慶長から元和元年(1615年)の間に設置されたとする説もある[2]。また浜松市 (1971, p. 180)では、設置年代不明としている。
お蔭参りと気賀関所

享保15年(1730年)にお蔭参りが流行したときには、都田村では、女中たちの抜け参り[注釈 2]が多かったため、気賀関所の命令を受けて、見張人を街道に沿う村の山へ毎日出したが、それでも抜け参りは絶えなかったとされる[1]

気賀関所では、お陰参りの流行中には、関所破りをほとんど黙認し、お陰参りが下火になってから「お陰参りの人々の関所破りに加担した」として周辺の村々に対し「叱り」などの軽い処罰を下していたが、これは表面的な措置であり、お陰参りの大規模な関所破りに対して、関所はほとんどお手上げ状態だったとされている[5]
関所の廃止

明治2年(1869年)の関所廃止令により気賀関所も閉鎖された[6]
監視体制 気賀の犬くぐり

気賀関所は、全国53箇所に設置された関所のうちで、東海道の新居(今切)の関所と同じく重要な関所と位置付けられていた[7]
要害の町

関所は気賀宿の東の入口に置かれた[7]。気賀(浜松市北区細江地区)は、町の北側に標高100m以上の山地・丘陵地があり、南は浜名湖、東は井伊谷川・都田川に挟まれた要害の町になっており[8][7]、関所の東門から宿場の南に沿って要害堀[9]が掘られていて、容易に抜け出ることができないようになっていた[7]。江戸時代の都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行した[3]

町並みは東西600メートルほどにわたっており、町の西側の入口には木戸があり[10]、桝形[11]が石垣で作られていた[7]。町の西の外れは、「棒鼻」[12]と呼ばれていた[7]。本坂通(姫街道)をはさんで北に本番所、南に「向番所」と2層の望楼があった[13][3]
関所番

気賀関所は、地頭で、「乱暴旗本」として知られた近藤登之助同族旗本気賀近藤氏が監理し、関所番として本坂越えをする通行人を監視した[7][14][15]。気賀近藤家は元和5年(1619年)から明治維新まで、12代にわたり関所を管理した[3]。役人は番頭2人、平番5人が交代で勤務し、ほかに下番1人、足軽2,3人がいた[7]
要害村

関所の周辺の村は「要害村」に指定され、関所破りを防ぐため、浜名湖を船で渡ったり、山中を通り抜けようとする者がいないかの監視を命じられていた[16]


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