民藝運動
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民藝運動(民芸運動、みんげいうんどう)とは、手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動。「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦らによる造語。1926年大正15年)に柳宗悦、富本憲吉河井寛次郎濱田庄司が連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表したことが、運動の始まりとされる。全国の民藝館などで運動が続けられている。

日本民藝館の創設者であり民藝運動の中心人物でもある柳宗悦は、日本各地の焼き物染織漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めた。
歴史
白樺創刊

「民藝」の提唱者の一人である柳宗悦は、1889年に東京の麻布に生まれた[1]。1895年に学習院初等科に入学し、西田幾多郎にドイツ語を、鈴木大拙に英語を学ぶなどした[1]。在学中には、武者小路実篤志賀直哉らと親交を深め、1910年に雑誌『白樺』を創刊した[2]。前年には、のちに『白樺』の同人となる仲間と共に来日してエッチング教室を開いていたバーナード・リーチを訪問している[2]雑誌『白樺』

1910年、柳は東京帝国大学哲学科に入学[3]。当時神学に関心を寄せていた柳は、老病死の問題の解決に科学が寄与できるのかという問題意識を持ち、心理学を専攻した[3]。柳はのちに芸術に傾倒していくが、当初は科学や哲学に強い関心を持ち、『白樺』にも神学に関する論文を寄稿していた[4]。1913年、柳は東京帝国大学を卒業する[5]
我孫子での交流

1914年中島兼子と結婚した柳は、我孫子天神山に転居する[6]。のちに、『白樺』同人の志賀直哉武者小路実篤も我孫子に移り住み、柳が「コロニー」と呼ぶような芸術家の集まるコミュニティーが生まれた[7]。1916年には、前年北京へ移住したリーチに柳が再来日を勧め、自宅の一部を窯と仕事場のために提供した[6]濱田庄司は、1919年にこのリーチの窯を訪ねてきた際に柳、志賀と出会う。
朝鮮民族美術館

1914年、陶磁器研究家の浅川伯教は柳のもとで保管されていたオーギュスト・ロダンの彫刻を見に我孫子を訪れる。その際に浅川から柳へ贈られた李朝秋草文面付壺に魅了された柳は朝鮮の陶磁器に関心を持つようになる[8]。1916年以降は実際に何度も渡朝し、工芸品の蒐集を行うなどした[9]。1921年、柳は雑誌『白樺』に「朝鮮民族美術館設立計画」を発表し、1924年にソウルの旧王宮・景福宮朝鮮民族美術館を開館した[10][11]。この間、1922年に日本政府が光化門の取り壊しを計画した際には、柳は計画に反対する「失われんとする一朝鮮建築の為に」という文章を発表し、建築物の保存を求めた[10]

朝鮮を旅する中で、柳は李朝の雑器に強い印象を受け、関心を深めていった[11]。当時、李朝の陶磁器は美的価値をほとんど認められておらず、柳はその価値を見出した先駆者の一人であった[11]。そして、この李朝陶磁との出会いが、後の柳の民藝論につながっていく[11]
白樺美術館

一方、1917年には雑誌『白樺』で「白樺美術館設立趣意書」が発表され、白樺美術館の設立が呼びかけられた[6][12]。当時、『白樺』の同人は、雑誌の刊行などを通して主に印刷物を使って西欧の美術の動向を吸収、複製を活用して展覧会を開催していた[12]。しかし、1911年に『白樺』でロダンの特集を組んだ際、浮世絵と共にロダン本人に雑誌を送付すると、ロダンから3体のブロンズ像を贈られた[13]。これをきっかけとして、本物を展示する美術館を設立する計画が立ち上がった[13]。呼びかけに応じて寄付が集まり、ポール・セザンヌの《風景》(大原美術館)の購入に至ったが、美術館建設の計画は関東大震災によって頓挫することとなった[14]
京都での活動
木喰仏の発見・調査木喰仏

1924年の1月、柳宗悦は友人の朝鮮美術研究家・浅川巧とともに浅川の故郷である甲州を訪れた[15]。この旅は当初、浅川が懇意にしていた古美術の蒐集家、小宮山清三の収集した朝鮮の陶磁器を見ることが目的であった[15]。しかし、小宮山家で柳は木喰仏の前を偶然通りかかり、それが木喰上人の作による仏像であることを知る[15]。これが、柳と木喰仏の出会いとなった[15]。以降数年にわたり、それまで無名だった木喰上人について調査するために、柳、濱田、河井の三人は木喰上人の足跡をたどり、全国を旅することとなる[16]
下手物の美

1924年4月、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ移住し、その後東京に再び戻るまで9年間にわたって京都を拠点として活動する[17]。京都では、以前から交流のあった濱田の紹介で河井寛次郎と新たに親交を結ぶこととなった[16]。同地で柳は河井に連れられて東寺北野天神の朝市を回り[16]、そこで出会った「下手物(げてもの)」に惹かれていく[18]。「下手物」とは、一般民衆が使用する雑器のことで、「上手物(じょうてもの)」の逆の言葉である[18]。柳は民衆が日常的に使用している雑器類に「美」を見出し、蒐集を進めた[18]
「民藝」の誕生

1925年の末、木喰仏に関する調査の旅の途上にあった、柳、濱田、河井は、「民衆的工藝」を略した「民藝」という言葉を新しく生み出した[19]


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