民族問題人民委員部(みんぞくもんだいじんみんいいんぶ、ロシア語: Народный комиссариат по делам национальностей)は、1917年の十月革命直後から1924年までのソビエト・ロシアに存在した人民委員部。略称はナルコムナーツ (Наркомнац)[1]。本部は当初ペトログラードに置かれたが、後にモスクワのトルブニコフ横町(ロシア語版)に[2]、さらに後にはゴーゴリ並木通り(ロシア語版)へ移転した。
地位(ロシア語版)で採択された「人民委員会議の設置に関する布告」に基づいて設置された、最初の人民委員部の一つ[3]。
民族問題人民委員部は、同月15日に公布されていた「ロシア諸民族の権利宣言(ロシア語版)」に基づき、
諸民族の要求を政府に伝え、政府の政策を諸民族に伝える
政府機関を通じて諸民族の文化的・教育的要求を満たす
政府の煽動・宣伝活動を諸民族に対し実施する
政府機関と諸民族との間で生じるあらゆる種類の紛争を調停する
憲法の原則に基づき、諸民族の自治のために必要とされる行政的・領土的条件を作り上げる
ことを任務とした[4]。
他の人民委員部との関係は、
全人民委員部に一般的な政治方針を与え、活動を指導する
政府の上級・下級機関を仲介する
遅れた民族(キルギス人、カルムイク人などの遊牧民)に対する政策を立案する
民族に関する憲法の原則を具体化する
ものとされていた[5]。 1923年10月1日の時点で指導層は
機構
人民委員 - ヨシフ・スターリン
次官 - グリゴリー・ブロイド
幹部会議書記 - ヴァレスカルン
幹部会議副書記 - シェイヘト
幹部会議メンバー - ミハイル・パヴロヴィチ / グスタフ・クリンゲル
となっている[6]。スターリンは創設以来の人民委員部トップであったが、あまり人民委員部には顔を出さず、実質的に人民委員部を指導していたのは次官のブロイドであった[6]。
人民委員部が設置された1917年11月中にまずポーランド人委員部(Yu・M・レシチンスキー代表)が組織され、翌12月にリトアニア人委員部(ヴィンツァス・ミツキャヴィチュス=カプスカス(ロシア語版)代表)が、翌1918年1月にアルメニア人(ヴァルラーム・アヴァネソフ代表)、ムスリム(ムッラヌル・ヴァヒトフ(ロシア語版)代表)、白ロシア人(アレクサンドル・チェルヴャコフ代表)、ユダヤ人(セミョーン・ディマンシュテイン(ヘブライ語版)代表)委員部が組織され、さらに3月から12月にかけてラトビア人(フリシス・ロージンシュ(ラトビア語版)代表)、エストニア人(G・G・ペゲリマン代表)、チュヴァシ人(ダニイル・エリメニ(ロシア語版)代表)、キルギス人(ムハメディアル・トゥンガンチン代表)、ウクライナ人(イヴァン・クリーク(ウクライナ語版)代表)、チェコスロバキア人(K・クノフリチェク代表)、ヴォチャク人(M・P・プロコニエフ代表)、カフカース山岳人(U・B・アリエフ代表)、ズィリャン人(M・A・モロツォヴァ代表)、カルムイク人(A・G・メシチェリャコフ代表)、マリ人(N・A・アレクセーエフ代表)、南スラヴ人、ヴォルガ・ドイツ人(グスタフ・クリンゲル代表)委員部が組織され、1919年初頭までに委員部数は21を数えた[7]。