「民間防衛」とは異なります。
この項目では、英語「Militia」の日本語訳の1つについて説明しています。その他の「Militia」については「ミリシア」をご覧ください。
民兵(みんぺい、英: militia ミリシア)は、軍人ではない民間人を要員として編成した実力組織のこと。
本来的には、平時においてその他の職業についている民間人が、緊急的な軍事要員として短期的な軍事訓練を受けた上で戦時において召集されたもので、正規の戦力である陸海空の軍隊とは区別されて考えられる。組織形態は多彩で、正規軍の一部であったり、戦争が勃発してから緊急的に編成されるものであったりと一概には言えない。ただし傾向としては、訓練期間は比較的短期間で、投入される費用も限定的であることなどがあげられる。 伝統的原理として、臣民は祖国防衛のため主権者からの召集に応えねばならないとされており、地域共同体による民兵隊として組織されてきた[1]。このような自警団・郷土防衛隊としての民兵は、現代に至るまで存在し続けている[2]。 アングロサクソン時代のイギリスでは、16歳から60歳までの健康な自由人男子は地域のフュルド
社会的基盤に応じた分類
地域共同体
中世
イギリスに限らず、中世のヨーロッパにおいて住民の応召は軍隊編成の常道であり、一般庶民は所属する共同体経由で兵役に召し出された[4]。ただしその参戦は攻撃戦ではなく防衛戦に限定されており、また当時の君主権が様々な奉仕の免除と制限の要請を伴う契約的性質を有するものであったことと、従軍義務者がその兵役を金銭により代替するという慣習的権利があったこともあり、14世紀頃には、臣民に兵役を課すかわりに税金を徴収し、その金銭によって傭った傭兵によって軍隊を編成することが主流になっていった[4]。一方、傭兵隊は君主に常に忠実とは限らず(フリーカンパニー)、作戦が終了して解雇されると野盗化する危険があるなど問題も多かった[5]。この問題を克服するため各国は常備軍の編成を志向し、フランス王国では政府の直轄下で弓兵よりなる民兵組織 (Franc-archer) が設立されたものの、広く普及することはなかった[5]。
近世・近代17世紀のイングランド民兵
16世紀には、地域共同体に依拠する民兵の臨時的性格を克服して半常備軍化することが試みられ、ニッコロ・マキャヴェッリを始めとする知識人の世界において大好評を博した[1]。しかしその代償として多大な財政支出や臣民への政治的特権の提供が必要となることから、17世紀頃には、政府にとっての負担が利点に見合わないとみなされるようになっており[1]、18世紀に入ると、特に西ヨーロッパでは民兵という制度はほとんど瀕死の状態に陥っていた[6]。フランス革命戦争において出現した徴兵制度による国民軍は、部分的には民兵隊の伝統を引き継いでいたものの、動員人数が圧倒的に巨大であり、また常備軍の補完ではなく主力として運用されるという点で、伝統的民兵隊とは決定的に異なっていた[7]。
一方、イギリスにおいては、憲政上の歯止めによって民兵は常備軍の代替として外征に投入されることはなく、戦時に祖国の防衛のために限って動員される存在としてあり続けていた[6]。イギリスによるアメリカ大陸の植民地化が進むと、植民地時代のアメリカ合衆国でも民兵隊が組織されたが、イギリス本国の政治文化を踏まえつつ、アメリカ独自の発展を遂げていった[8]。ボストン茶会事件を契機として本国政府と植民地との緊張が高まるにつれて、これらの民兵隊は政治団体としての性格を帯び[9]、独立戦争では多くが大陸軍として連合した[10]。