「民族学」とは異なります。
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やノートページでの議論にご協力ください。民俗学(みんぞくがく、英語: folklore studies / folkloristics)は、学問領域のひとつ。高度な文明を有する諸国家において、自国民族の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問で、民族学や文化人類学の近接領域である。 民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。 この学問は、近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。通常はfolkloreの訳語とされるが、folklore
概要
人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。 時代や学者によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。 日本で民俗学といった場合、一般には日本民俗学を指すが、海外を見ると19世紀の欧米を中心として、多くの国で民俗学に相当する学問が誕生している。誕生の経緯は国ごとの政治的社会的状況や民族学(文化人類学)等との関係によって多様である上に、他の社会科学のように国際的な交流が盛んではなく各国独自の進展をしてきたこともあって、一概に民俗学の歴史を語ることはできない。 ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、主にフランス革命による近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬や民族意識の高まりが存在する。 イギリスでは1846年に、作家のウィリアム・トムズ(William John Thoms)がドイツ語のフォルクスクンデ 一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という民族主義的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者のヘルダー(Johann Gottfried Herder)が民族の魂の発露としての民謡の概念を提唱し、次いで昔話収集や古法・法諺の研究で有名なグリム兄弟らが、ドイツロマン主義を背景に神話学としての民俗学への道筋を敷き、それは時代風潮とも合って、一種のブームとなった。そのためロマン派のドイツ民俗学はゲルマニスティク(ドイツ語学・文学研究)との重なりが強かった。その傾向に異を唱えたのは、1850年代のヴィルヘルム・ハインリヒ・リールであった。リールは、ロマン派の民俗学が珍習奇俗の収集とそれを神話との関係で読み解く好事家的な方向にあることを批判し、現実の民衆生活を体系的に把握すべきことを説いた。特に「学問としてのフォルクスクンデ」が重要であるが、ドイツ民俗学の関係者がリールに注目するようになるのは20世紀に入ってからであり、リール自身はグリム兄弟との接触もなく、また生前には民俗学の人脈とはほとんど無関係であった。後にリールはドイツ民俗学の指標とされるようになるが、他方、リールの思想の保守性や反動的性格を指摘する声も根強く、評価をめぐって何度も論争が起きた。 1891年にはグリム兄弟の晩年の弟子でもあるカール・ヴァインホルト 20世紀前半には、ハンブルク大学において初めて大学での民俗学ポスト(ただし、設置者の構想ではハンブルク都市史に重点があった)に就いたオットー・ラウファー
学問としての諸特徴
研究の目的は、ある民族の伝統的な文化、信仰、風俗、慣習、思考の様式を解明することにある。また、こうした対象の歴史的変遷とともに、時代をさかのぼりながらその原初形態を明らかにしようとする傾向を持つ。
研究の対象が自民族の基層文化である場合は、他民族の事例を自民族の研究の補助材料として使う場合が多い。
研究の手法として、文献資料のほか、現代社会に残存する文化・風習・思考の様式を重視する。このためフィールド・ワークによる材料収集を行う。
また未開であると考えられる他民族の文化・風習・思考の様式を、人間のプリミティブな精神活動のあらわれであると考え、これを研究上の材料または補助材料とすることも多い(この点について、現在ではポストコロニアルな考えから批判が行われることがある)。「未開」と「古代」(始原)の同一視は民俗学の特色のひとつである。
現代人が無意識のうちに行っていること、あるいは合理的な説明をつけながら行っていることのなかに、古代的な意味を見出す、という型の研究が多い。
日本では文学研究・批評に大きな影響を与えており、この点で文化人類学・民族学とは異なった特色がある。
特に日本の民俗学研究にあっては、その初期に大きな影響を与えた柳田國男、折口信夫の二人が強烈な個性の持主であり、西欧渡来の学問の手法を消化して日本独自のフォークロアを完成させたため、「柳田学」「折口学」といった名で呼ばれることもある。また、柳田自身、「新国学」と称して民俗学の体系化を試みており、近世以来の国学の影響も強い。
日本民俗学は「在野の学」と表現され、他の諸学問と比較したときに最も特異とされる特徴でもある。これは在野とアカデミズム(民俗学を職業としているか否か)を区別しない、学歴や職業にかかわらず民俗事象に興味関心のある者は誰でも参加できる学問、といった感覚で用いられている。これらのことから、通常「在野の民俗学者」という言い方がされることは少ない(逆に「大学の民俗学者」という言い方がされることがある)。
日本においては民俗または民俗学という用語が一般には通じにくいことがあり、民族学(文化人類学)と混同されたり、ミンゾクという言葉から政治的な活動、研究を行なっているという勘違いを受けたりすることが間々ある。マスコミや出版物などにおいても「民族文化財」や「民族資料館」といった誤植が多く見られる(無論本当の「民族資料館」も存在する)。大学においては「紛争などの民族問題を学びたい」、「アイヌ民族を勉強したい」という理由で民俗学研究会の扉をたたく学生がいるのも新入生の多い時期には良くある風景である(民族学については隣接学問でもあるので、研究会、学会の中には研究対象に含めている団体もある)。
民俗学史
ヨーロッパの民俗学
イギリス、フランス民俗学
ドイツ民俗学
しかし現行の習俗を古代との連続性(Kontinuitat)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出そうとする傾向をもつ民俗学は、本質的に民族主義的な政治イデオロギーに取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の国家社会主義時代には国民統治および人種主義の国策学問へと取り込まれていった。ナチス政権下の国策民俗学機関として「ローゼンベルク機関」と「アーネンエルベ(祖先の遺産)」が組織され、ゲルマン民族の遺産の解明のためあらゆる資料が集められ、その中には荒唐無稽な偽古文書も含まれ、オカルティックな偽史までが国策に利用されていった[2]。ナチス党員としてプロパガンダ作成や民俗行事の創出に積極的に関わった学者は必ずしも多くはなく、熱狂的となったのは若手や少壮が中心で、彼らはまたナチ・エリートでもあったが、他の大半の研究者も批判的視点をもつには程遠く、思想的にナチズムと同質・同根の要素をかかえていたのが実態であり、それだけに問題は根深いものがあった。そうした体質が、戦後、何度か波をつくりながら批判されることになった。戦後の西ドイツ民俗学界は、学問としての信頼を失ったフォルクスクンデを自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。ミュンヘンではハンス・モーザーとカール=ジーギスムント・クラーマーが中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。
現行の民俗事象の把握では、テュービンゲン大学のヘルマン・バウジンガーが最初の主要著作『科学技術世界のなかの民俗文化』(1961年刊)において、科学的な技術機器と常に身近に接する生活のあり方こそ近・現代の生活文化の基本であるとの観点に立ち、逆に伝統文化や伝承には一種の異質性とそれゆえの吸引力があることに着目して、民俗学の背景となっていた、伝統・伝承に基底的なものを見てきた従来の通念を覆すような理解の構図を提示した。またこれに理論的な支柱を得てハンス・モーザーがフォークロリズム(フォークロリスムス、Folklorismus)の概念を提起し、さらにバウジンガーが補強したことによって、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込むことが大幅に進展し、変化しにくいとされる伝統習俗に固執する旧い民俗学からの脱却が図られた。
バウジンガーは、1971年、テュービンゲン大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft(経験的[型]文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容し、また近年ではEUが日常生活の次元でも枠組みとなる趨勢もあって、マールブルク大学を先駆けとするヨーロッパ・エスノロジー/フォルクスクンデの二重名称を採用することが多くなっている。日本でも、ドイツの動きに刺激されて、民俗学の名称への疑問が起きている。ただし、学問名称をめぐっては、ドイツ民俗学の研究者河野眞は、ドイツ語の「フォルクスクンデ」は一般語であると共に、<民の覚え>といった古めかしくもあれば馴染みやすくもある語感をもち、それゆえ言葉が独り歩きして混乱を大きくした面があること、それに対して日本語の「民俗学」は民俗研究をもっぱら指す造語の性格にあり、その違いを見ると、学問名称の当否に関するかぎり日本語の場合大きな問題ではなく、むしろドイツ民俗学界において名称変更を機になされた議論の中身に注目すべきであると説いている。 日本での民俗学は近世における国学や本草学にも源流が見られるが、本格的な研究が開始されたのは19世紀末である。一つの嚆矢となるのは坪井正五郎が東京人類学会を立ち上げた1886年であり、民族学・民俗学・自然人類学・考古学等を包含する「人類学」の研究として、「土俗」の調査が行われるようになった。一方、新渡戸稲造らと村落研究の勉強会を行っていた農商務省官僚の柳田國男は、1909年、宮崎県椎葉村で聞き書きした狩猟の話を「後狩詞記」(のちのかりのことばのき)として自費出版し、柳田民俗学の第一歩を踏み出す。1913年からは雑誌『郷土研究』を創刊するとともに、当時イギリス留学から帰国した南方熊楠にゴム編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を借り受け、それまで余技の道楽ととらえていた民俗学を学問として体系化する道筋をつけたのである。 ヨーロッパのフォークロアやエスノロジーが、残存の概念によって古代との連続性を持った基層文化を明らかにしようとするのに対して、柳田は人々の生活向上を初期のモチベーションに、民俗学の目的は常民生活の歴史的変遷と同時代の生活文化との関係を考察することにあると考えていた。柳田が民俗学を構築しようとした意図は重層的であり、一つには庶民の生活史を看過する既存の文献史学へのアンチテーゼとして、二つには進化主義的な民族学や「土俗学」との棲み分けとして、三つには地方改良運動に代表される当時の国内文化政策への対抗言説として等、時代状況を反映したさまざまな企図がもくろまれていたとされる。
日本民俗学