民会_(ローマ)
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民会(みんかい、ラテン語: Comitia コミティア)は、古代ローマ政府組織の一つ。立法機関であるだけでなく、選挙による指導者の選出、開戦と終戦や市民への頭格刑(死刑)宣言が出来る唯一の機関である[1]クリア民会ケントゥリア民会トリブス民会プレブス民会があった。
概要

戦争について諮るクリア民会、
執政官執政武官を決めるケントゥリア民会、
これらは正しい手順を踏んでのみ開かれるものであり、
ウェイイに移転した後も、
この見捨てられた町へ戻ってそれを開こうというのか。

リウィウス『ローマ建国史』5.52.15、カミッルスの演説より

民会は、政務官によって召集・解散されたため、召集者の影響力が大きかったと推測される。議論は民会ではなく、集会(コンティオ)で行われ、それも政務官によって召集された。法案の提出も政務官によってのみ行われ、民会の参加者は動議を行うことや意見の表明も出来ず、ただ票決するのみであったという[2]。更に言えば、紀元前139年までは記名投票であったためか、否決された法案はほとんどなく[3]。選挙に関しても、選挙結果を政務官が拒否したケースもあり、民衆にどこまでの自由があったのか疑問視する説がある[4]

更に投票単位の問題がある。各民会では、各個人ではなく、各人が所属するクリア、ケントゥリア、もしくはトリブス(プレブス民会もトリブス)が票決の単位であった[5]。このことは、票決の成立に必ずしも大多数の参加が必要ないことになり、実際の民意と乖離した票決であっても、形式的には問題がないことになる。ただそれでも、民会による承認は形式的に必要不可欠なものであった[6]。このことは、民衆が常に受け身であったことは意味しない。彼らの意思表示は、食糧不足などの切羽詰まった問題があった場合には、より直接的な手段によって行われていた[7]。こうしたデモといった暴力的な手段による影響力は、民会よりも遙かに大きかったと考える学者もいる[8]

選挙に関して言えば、パトロネジ論が提唱されており、信義(フィデス)が投票行動の重要な要素であったとする説が有力であった[9]パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の階級闘争が終わり、プレブスも支配階級へ組み込まれノビレス(新貴族)が形成されると、プレブスの代弁者たる護民官も体制に組み込まれていった。そのため、民会の影響力は低下したと思われるが、新貴族は民衆を無視することは出来ず、公開の場での説明を求められ、配慮する必要があったという。紀元前3世紀から2世紀にかけては、民衆は形式的にではあるが民会での決定プロセスに参加しており、基本的な欲求は満たされていたため、社会的に安定していたのではないかと考える学者もおり[10]ファーガス・ミラーはより民主的な形を予想し、この政務官の演説による説得の必要性を重視した[11]

司法について言えば、立法・選挙に比較してより民衆の意見が反映されやすかったとも言えるが、紀元前2世紀以降は各種犯罪に対する常設審問所が設置されたため、民会の影響力はほとんどなくなっていった。ただし、特に選挙の場合に多くの人々が参加していたことは確かであり、民主的であったかどうかについては、さらなる検討の余地があると考えられる[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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