民主集中制
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民主集中制(みんしゅしゅうちゅうせい、英語: democratic centralism)、民主主義中央集権制(みんしゅしゅぎてきちゅうおうしゅうけんせい)は、国家の統治形態及び政党の組織論。国家政体としては現存社会主義諸国家で採用されてきたが、その具体的な制度の詳細は国と時期とによって様々である[1]共産主義政党および現存社会主義諸国家において公式の組織原理とされた[2]ルーマニア共産党の分派闘争を描いた戯画。強固なブロックとして表現されたルーマニア共産党(PCdR)に対して行動する派閥主義者をくさびとして描いている。くさびは「マルグレス」(サミュエル・マルグレスか)と、おそらく「ルキシミン」(マルセル・パウカー)を指す。(1931年12月作)。

自由分散主義と官僚主義的中央集権の双方と異なって、民主主義の理念と中央集権主義の原則とを統一したとする概念である[2]
定義
政党の組織論として

フランスの政治学者デュベルジェは『政党社会学』の中で、民主集中制はほとんどすべての政党においてみられる原則であるとしている[3]

民主集中制は党内民主主義と中央集権制とを統一した前衛党の組織原則である[4]。すべての党員に選挙権・被選挙権・党の会議での発言権などの民主的権利を保障して民主的な党運営を図るとともに、少数は多数に、個人は組織に、下級は上級に従い、分派を認めず、政党として統一した実践を行うという組織の在り方であるとされる[4]。民主集中制は党員と党組織の積極性を高め自覚的な規律を強めるとともに、党内の意見と経験を集約し、個人指導を排して集団指導を実現し、党の指導力を高める[4]

1917年、ロシア社会民主労働党は第6回党会議において、民主集中制を以下のように定義した[5][6]
党は、互選による。

全ての党組織は、その活動内容の一切を党に報告する義務を負う。

少数派は、多数派および党規約に対し、厳格に隷従する義務を負う。

党上部の決定は、全党員および下部組織に対し、絶対的かつ強制的な拘束力を持つ。

以上の規約は民主集中制の基本原理を表す党規約として採用され、そのままソビエト連邦共産党が継承した[7][要ページ番号]。その後も各現存社会主義諸国や各国共産党の公式的な組織原理として採用された[8]ウラジミール・レーニンは、「少数派の批判は完全に尊重される。……だが、それはあくまでも党の決定や行動を一切妨げない範囲であり、それ以外の批判は排除される」と記述し、表現の自由を尊重する民主的な制度だと主張した[9]

非合法政党である場合、民主主義を実現するのは危険な場合がある[10]。ロシア革命以前のボリシェヴィキ、戦前の日本共産党、解放戦争時代のアルジェリア民族解放戦線などがそれにあたる[10]。一つの会場に集まって民主的に討議して選挙で決めるという間に警察に捕まってしまうという恐れがあったからである[11]

前衛党が取るべき方針について、全党的な議論をする、多数決によって決定された方針の正誤は、全党員による実践を通じて検証するという考え方を組織の原則とする。
国家の統治形態として

理論的には、主権者である人民の代表、もしくは議会から選ばれた指導部に国家権力を集中する制度である。国家の最高機関は議会であると位置づけられ、立法権のみならず行政権、司法権などの国家権力がこの議会に集中する[1]。すべての権力が人民にあるとするならば、その意思を代表するのは人民によって選出される議会だからである[1]。ソ連邦においては、最高会議に国家権力を集中させる形をとったが、中華人民共和国においては行政機関と裁判所は全国人民代表会議(全人代)に責任を負うものとされている[1]

しかし実際は、理論上に書いたものが本当にソ連邦中国で実施されたかどうか異議が唱えられている[12][要ページ番号]。厳格な規律・上級機関に対する定期的報告の義務化・党内および国内の民主主義への制限・国民に対する閉鎖や弾圧などの印象が付けされた論争的な概念でもある[13][要ページ番号][14][要検証ノート]。
歴史
前史

民主集中制という言葉こそ用いていないものの、民主集中制はマルクスが主張し、共産主義者同盟の規約にかかれ、運用されたとされる[15]。マルクス・エンゲルスは組織論について次のように述べている[16]。.mw-parser-output .bquote cite{font-style:normal}

プロレタリアートは強力な革命をぬきにしては、みずからの政治支配を、新しい社会への唯一の関門を、獲得することはできませんが、この点にかんして私どもの見解は一致しています。その決戦の日に、プロレタリアートが勝ちぬけるだけの十分な強さをもてるように――これは一八四七年以来マルクスも私も主張してきたことですが――プロレタリアートは、いっさいの他の諸政党とは一線を画した、それらに対立した特別の党、つまり、自覚した階級政党をつくる必要があります。

?エンゲルス 1889年12月18日付ゲルソン・トリエルへの手紙

労働者階級の解放をめざすいっさいの努力を力ずくでおしつぶし、暴力によって階級差別とそれに由来する有産階級の政治的支配とを維持しようとしているほしいままな反動に当面しているとき、
労働者階級が有産階級のこの集合権力に対抗して階級として階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の党から区別された、それに対立する政党に自分自身を組織する場合だけである。
労働者階級をこのような政党に組織することは、社会革命とその終局目標――階級の廃止――との勝利を確保するために不可欠であること、
労働者階級がその経済闘争によってすでになしとげた勢力の結合は、同時に、地主と資本家との政治権力にたいする彼らの闘争のためにもてことして役だたなければならないこと、
以上のことを考慮して
協議会は、
労働者階級の闘争の立場からすれば、その経済運動とその政治活動とは切りはなせないように結びついていることにインタナショナル会員の注意をうながすものである

?マルクス・エンゲルス 「労働者階級の政治活動についての決議」(1871年9月)

榊利夫によれば、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスらの共産主義者同盟の規約は、当時の条件の下で党内民主主義と中央集権制の両契機を統一したものだったという[17]。また、ウラジーミル・レーニンはその初期の著作から、民主主義と中央集権制の両契機を党組織論のなかで強調しており、どちらかに一面化することはできないと指摘している[18]

ロシア社会民主労働党1898年に第1回大会を開き創設されたが、成立した中央委員会は間もなく逮捕され、現実に統一的な党を作り上げることはできなかった[19][20]。レーニンはそのような状況から、ロシアのような専制的抑圧・非合法の諸条件の下での党建設は、まず大会を開いて正式に中央委員会を作ることから始めるべきかに疑問を呈していた[20]。「イスクラ」を通して党組織の実際的な統一をまず作り上げていくという党建設の方針と計画を、「なにからはじめるべきか?」と『なにをなすべきか?』で詳らかに明らかにした[21][20]


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