民主社会党_(ドイツ)
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ドイツ政党民主社会党
Partei des Demokratischen Sozialismus
党のロゴ
党首(Vorsitzender)ロタール・ビスキー
成立年月日1989年12月16日(社会主義統一民主社会党)
前身政党ドイツ社会主義統一党 (SED)
解散年月日2007年
解散理由新党結成のため
後継政党左翼党
本部所在地 ドイツ ベルリン カール・リープクネヒト・ハウス
政治的思想・立場左翼
社会主義
ユーロコミュニズム
シンボル赤
国際組織欧州左翼党
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左翼党-民主社会党(ドイツ語: Die Linkspartei.PDS)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の末期から再統一後のドイツ連邦共和国にかけて存在した社会主義政党で、現在の左翼党の前身となる政党のひとつ。

なお、左翼党-民主社会党というのは最終的な党名で、党が存在した17年間の大半においては、党名は民主社会党(ドイツ語: Partei des Demokratischen Sozialismus, PDS)であった。
概要
ベルリンの壁崩壊とドイツ統一のなか、SEDからPDSへ

前身は、統一前の東ドイツ独裁政党だったドイツ社会主義統一党(SED)。ベルリンの壁崩壊に象徴される東ドイツの民主化運動が盛んだった1989年12月16日に、SEDは社会主義統一民主社会党(SED-PDS)と改称。同時に綱領から独裁色を払拭した。改名当時の初代党議長(党首)はグレゴール・ギジ。さらに東ドイツ初の自由選挙を前に1990年2月4日に党名を民主社会党(Partei des Demokratischen Sozialismus、PDS、「民主社会主義党」、「民主的社会主義党」とも訳される)と再び変更。ドイツ統一までに計二回、党名を変更していた。この間、ハンス・モドロウ首相の政権を支えた。グレゴール・ギジ初代党首

1990年3月18日に行われた東ドイツの自由選挙ではギジ党首を先頭に16.1%の得票を得て400議席中66議席を獲得したが、ドイツキリスト教民主同盟が第1党となりロタール・デメジエール首相となった連立政権に参加できず、東ドイツ建国以来初めて野党に転落することとなり、急速なドイツ再統一の波にブレーキをかけることができなかった。さらに再統一後に東ドイツ人民議会のメンバーを加えた暫定的な連邦議会ではPDSに対してシュタージ(東ドイツ国家保安省)疑惑が持ち上がるなど苦しい立場におかれ、続くドイツ統一後の1990年ドイツ連邦議会選挙(初の東西両ドイツ統一総選挙)では、当初はPDSは全ドイツのレベルでは5%ラインに及ばず、議席を失うことが確実視されていた。しかし選挙前に連邦憲法裁判所の判断を経て、この選挙一度に限って旧西ドイツと旧東ドイツではそれぞれ別々に5%ラインを適用することとなり、1990年12月2日に行われた総選挙においてPDSは全ドイツでは2.4%にとどまったものの、旧東ドイツでのみ5%を突破し、辛うじてドイツ連邦議会に17議席を確保することとなった。
1990年代

1990年から2007年(解党・左翼党に合流)までの連邦レベルならびに各州レベル選挙での得票率は右の表を参照

Wahlergebnisse der PDS (1990?2005) /
Linkspartei.PDS (2005?2007)

統一後はSED時代には230万を数えた党員数が激減。1991年までには9割以上が離党し党員数17万に落ち込むなど党消滅の危機もささやかれたが、経済不振に喘ぐ旧東ドイツ地域住民の不満を代弁する形で、まず旧東ドイツ地域の各州議会や地方自治体議会から少なからず議席を獲得していった(もっとも、党員数はその後も減少を続けた)。1994年6月12日に行われた欧州議会選挙のドイツ選挙区では4.7%を獲得し5%ラインによって議席を獲得できなかったものの、連邦レベルでヘルムート・コール政権与党第二党ながら同じく議席を失った自由民主党(FDP)を上回る成績を上げた。なお西側でもSEDの友党であったドイツ共産党や西ベルリン社会主義統一党(ドイツ語版)の党員の多くを受け入れている(但し、前者は現在も存続)。

そして、全ドイツのレベルで5%ラインが適用される1994年ドイツ連邦議会選挙においてはグレゴール・ギジや新党首のロタール・ビスキーのほか旧東ドイツ反体制活動家のシュテファン・ハイム(de)、元ドイツ民主農民党党首で東ドイツ人民議会議長だったギュンター・マロイダ(de)、クリスタ・ルフト(de)元東ドイツ経済相など知名度の高い候補者を擁立し、10月16日の投開票において得票は4.4%にとどまったものの、旧東ドイツに強い地盤を有するPDSは特にベルリン小選挙区に選挙運動を集中させて小選挙区から4名を当選させ[1]、ほぼ倍増の30議席を獲得した。

続く1998年9月27日に行われた連邦議会選挙においては、ゲアハルト・シュレーダードイツ社会民主党(SPD)と同盟90/緑の党による連立政権を樹立しドイツの首相となるなか、PDSも得票を伸ばし5.1%となり、念願の5%ライン突破を実現した(36議席)。また同日に行われたメクレンブルク=フォアポンメルン州議会選挙の結果、州レベルでは初めてドイツ社会民主党(SPD)と連立政権を樹立し、州の与党となった。

この勢いをかって、1999年6月13日に実施された欧州議会選挙のドイツ選挙区でも5.8%を得票し5%ラインを突破。旧東ドイツ首相ハンス・モドロウを先頭に初めて6名の欧州議会議員を送ることとなった。欧州議会では院内会派欧州統一左派・北方緑の左派同盟に加わった。
2000年代

2001年にはベルリン(州と同格)でSPDのクラウス・ヴォーヴェライト市長を首班とするSPD・PDS 連立内閣に参加。州レベルで与党入りする実績を得た。グレゴール・ギジが入閣したが、公務で使った旅客機のマイレージサービスを私有したとして批判され、2002年7月に全ての公務を辞職してしまった。

この直後の2002年9月22日連邦議会議員選挙では、ゲアハルト・シュレーダー政権が継続することの是非が問題となって社会民主党(SPD)と保守政党ドイツキリスト教民主同盟(CDU)のあいだで接戦となったため、これまでPDSに票を投じてきた有権者のうち一部が「よりましな選択」として社会民主党に票を投じる傾向が生じた。


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