民主社会センター・人民党
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ポルトガル政党民主社会中道・人民党
CDS - Partido Popular(CDS-PP)
CDS-PPロゴ
党首ヌーノ・メロ
成立年月日1974年7月19日
本部所在地 ポルトガルリスボン
共和国議会2 / 230   (1%)(2024年3月10日)
党員・党友数38,455人[1](2018年)
政治的思想・立場中道右派[2][3] - 右派
キリスト教民主主義
保守主義[4]
国際組織欧州人民党
国際民主同盟
公式サイト ⇒www.cds.pt
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民主社会中道・人民党(みんしゅしゃかいちゅうどう・じんみんとう、ポルトガル語: Centro Democratico e Social-Partido Popular、略称:CDS-PP)は、ポルトガル中道右派政党国際民主同盟及び欧州人民党に加盟。選挙の際は「人民党」と名乗ることが多い。党首はヌーノ・メロ。
歴史
結党

カーネーション革命後の政治的混迷の最中に結成。1975年1月25日に、ポルトのロザ・モタ・パビリオンにて初の党大会を開催する。
カーネーション革命に抗して

1975年3月25日以後、当時の政権が主要産業の国有化に踏み切ったことを受け、党は公式に野党を表明。また、翌年4月2日には社会主義色が濃い憲法の批准に16名の議員が国内の政党で唯一反対票を投じており、同年の選挙で共産党を上回る42議席を獲得した。
民主同盟

1979年には、社会民主党及び人民君主党と中道右派政党連合「民主同盟」(Alianca Democratica、AD)を結成。社会民主党のフランシスコ・サ・カルネイロ率いる民主同盟は、同年と翌年の選挙で勝利し、政権与党となった。

サ・カルネイロを首班とする民主同盟政権において人民党は、5名の閣僚及び10名の国家評議会員を輩出、また、ディオゴ・フレイタス・ド・アマラル党首が副首相兼外務大臣に就く。

しかし、1980年12月4日にサ・カルネイロ首相、アデリノ・アマロ・ダ・コスタ国防相らが航空事故により死亡すると、ド・アマラルが新政権発足まで首相を務める(後任は社会民主党党首のフランシスコ・ピント・バルセマン)。1981年9月4日、ド・アマラル党首辞職に伴い政権が崩壊し、民主同盟にも終止符が打たれる。
野党の20年間

民主同盟の崩壊後、アドリアノ・モレイラ新党首の下で党体制の刷新を図るも、退潮を止めることが出来ず1期限りで党首を降りる。その後ド・アマラルが党首に返り咲いてもこの傾向は変わらず、アニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党の後塵を拝し、一時は4議席(後に5議席)にまで後退。1992年にはド・アマラルが党を離れる。

ド・アマラルの離党後の同年3月、第10回党大会にてマヌエル・モンテイロが党首に選ばれ、翌年の臨時党大会で スペインの同名の政党を模範とすべく、党名に人民党が加わる。

1995年の議会選挙で15議席を獲得し党勢が回復したものの、1997年の地方選挙で敗北を喫する。この結果を受けモンテイロが党首を辞任し、ブラガで開かれた党大会にてパウロ・ポルタスが党首に就任。ポルタスは1999年の議会選挙で現有議席を確保することなどを公約し、それを果たした。
「民主連合」

2001年の地方選挙と翌年議会選挙で大敗後、社会党アントニオ・グテーレス首相が辞任。一方、社会民主党が比較第1党となったことから、20年振りに人民党との連立政権が復活する。その際、人民党は3名の閣僚(ポルタス国防相、バガン・フェリス社会保障相、セレステ・カルドナ法務相)を輩出。

2004年夏、ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ首相が辞職し欧州委員会委員長となったのに伴い、ペドロ・サンタナ・ロペスを首班とする新たな社会民主党・人民党連立政権が誕生。だがロペス首相は国民からの人気が今一つだったため4ヶ月で辞任、議会も解散し議会選挙へと突入する。
2005年ポルトガル議会選挙以後

2005年の議会選挙では、人民党が議会第3党の維持と社会党の絶対多数阻止を掲げ選挙戦を展開。その結果、10%の得票率を記録したものの、現有14議席から2議席減らす12議席に留まった。

選挙での惨敗と連立相手であった社会民主党の敗北を受け、ポルタスが党首の座を降り、ホセ・リベイロ・カストロが新党首となった。しかし2007年5月にはポルタスが党首に返り咲く。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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