民主左翼連合_(ポーランド)
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ポーランド政党民主左翼連合
Sojusz Lewicy Demokratycznej(SLD)
ヴウォズィミエジュ・チャルザスティ
党首ヴウォズィミエジュ・チャルザスティ
成立年月日1999年4月15日
本部所在地 ポーランド ワルシャワ
セイム議席数24 / 460   (5%)(2019年10月13日)
セナト議席数0 / 100   (0%)(2019年10月13日)
政治的思想・立場社会民主主義
中道左派
シンボル
国際組織社会主義インターナショナル
社会民主進歩同盟
欧州社会党
公式サイト ⇒Sojusz Lewicy Demokratycznej
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民主左翼連合(みんしゅさよくれんごう[1]ポーランド語: Sojusz Lewicy Demokratycznej)は、ポーランドにおける社会民主主義政党である。世界各国の中道左派・社会民主主義政党の国際的組織である社会主義インターナショナルに加盟している。現在の党首(2016年1月 - )は、ヴウォズィミエジュ・チャルザスティ。
歴史2007年総選挙における郡別政党支持強弱
PO=市民プラットフォーム
PiS=法と正義
LiD=左翼と民主(左派の民主左翼連合と中道の民主党を中心とする中道左派選挙連合)
PSL=ポーランド農民党

社会主義体制時代の支配政党であるポーランド統一労働者党(PZPR)が、前年1990年1月28日の第11回党大会で解党した直後に結成されたポーランド共和国社会民主党(SdRP)を軸にして結集した左派勢力の選挙準備団体(選挙連合)として1991年7月9日に発足した。

発足直後に行われた1991年議会選挙では60議席(得票率11.99%)を獲得して第2党となった。その後、1993年議会選挙では、171議席(20.4%)を獲得して第1党となり、第2党となった農民党(PSL)と連立政権を組んだ。しかし1997年議会選挙では164議席(27.13%)の獲得に留まり、独立自主管理労働組合「連帯」の流れを汲み保守勢力が結集して結成された「連帯」選挙行動(AWS)に敗れた。
政党連合から政党への移行

1997年の憲法改正で、社会団体が選挙に参加できなくなったことから、SLDは選挙連合から政党への転換を図り、1999年4月15日に連合に参加していた29組織が新党「民主左翼連合」を結成する署名を行って、政党へと移行した(政党登録は1999年4月26日)。この時、SLDは社会主義体制を明確に否定して社会民主主義路線を明確にした。

2001年議会選挙では労働連合(UP)と選挙連合(SLD-UP)を組み、216議席(41.0%)を得て圧勝。SLD-UPは第1党としてPSLと連立を組むことで、政権に返り咲いた(のちにPSLとの連立は解消された)。しかし、2002年12月末に明るみに出た民主左翼連合への贈賄疑惑(リヴィン・ゲート事件 RywinGate[2])をきっかけに支持率が急落し、2003年には5%前後まで低迷した。そして、党内では内部対立が表面化し、2004年3月には指導部の腐敗を批判する一部党員や議員が離脱して「ポーランド社会民主主義者」(SDPL)を結成した。
議会選挙での後退

2005年議会選挙では、SLDによる腐敗政治の打倒を目指した中道右派政党の法と正義(PiS)と市民プラットフォーム(PO)が勝利を収め、SLDは55議席(11.3%)に留まり第4党に転落した。その後、2006年の地方選挙においてSLDは自由主義政党の民主党(PD)やUP、SDPLと共に選挙連合「左翼と民主主義(LiD)」を結成した。翌2007年の議会選挙でもLiDで選挙に臨んだが、セイムで53議席(13.2%)を得るに留まった(セナトでの当選者は無し)。選挙後にLiD内部でPDとの対立が再燃し、統一議員団からPDとSDPLが離脱したため解散した。その後、UPと共同で議会会派「左翼」(Lewica、2010年9月24日に会派名を「民主左翼連合」に名称変更)[3]を構成した。
党勢の復活

POとPiSの二大政党に挟まれ苦戦が続いてきたが、近年は党内の世代交代が進み、ナピェラルスキ党首をはじめ中央執行部は1989年民主化後に入党した人々で占められるようになった。これにより民主化以前のポーランド統一労働者党時代の悪いイメージが徐々に払拭され、政策面でも北欧型の社会民主主義政党の色彩が強まった。このため支持率も回復し、つねに15%以上の支持率を獲得しているほか、ナピェラルスキ党首はその知的で温厚なイメージにより最近の世論調査では支持率51%を獲得、現在のポーランドでもっとも信頼を集める政治家になっている[4]

2011年5月10日、SLDの有力議員でナピェラルスキ党首と対立関係にあるアルトシュ・アルウコヴィッチが、メディアで取りざたされている同年秋のポーランド議会選挙におけるPiSとの選挙協力に反発してSLDを離脱し、トゥスク政権の国務大臣に就任と議会選挙でPOから出馬することを明らかにした[5]
2011年議会選挙

2011年10月5日に投票が行われる議会選挙に向け、SLDは8月22日に選挙プログラムを発表した[6]。プログラムでは「不安のない明日」をスローガンに、最低賃金年金額の引き上げなど社会保障政策の充実、妊娠中絶の合法化、アフガニスタンに駐留しているポーランド軍の早期撤退などを公約として掲げた。

選挙の結果、POを離党したヤヌシュ・パリコトが結成したリベラル系新党「パリコト運動」が躍進したあおりを受けて支持率を大きく減らし、下院において前回より半分近く議席を減らして惨敗、第3党から第5党に転落した。また選挙後には一部議員が離党しパリコト運動に移籍するなど党勢を更に減らす結果となった[7]。12月に行われた臨時党大会でナピェラルスキ党首が退き、新党首としてレシェク・ミレル元首相が選出された[8]

2012年4月に行われた党大会ではミレルが党員から9割以上の支持を集めて党首に再選。ミレルは右派に対抗する代替政治勢力の建設を主張、また政府が進める年金制度改革を批判した[9]。一方で、同年12月には欧州議会議員であるマレク・シヴィエツが、SLDが元大統領のクァシニエフスキやパリコト運動との統合に消極的なことを理由に、同党を離党した[10]
左派勢力の統合に向け

2013年2月、ミレルがクァシニエフスキと会談。左派政党の再建に向けた議論で双方で左派の定義についての相違はあったが、協議を継続することで一致[11]。同月には、2014年に行われる欧州議会議員選挙に向けた政治連合「欧州のための連合」を結成するため、クァシニエフスキら左派政治家に連合への参加を呼び掛けた。しかし、クァシニエフスキはパリコト運動と共に欧州議会議員選挙に向けた統合した左派議員リスト「欧州プラス」の結成計画を発表した[12]。この「欧州プラス」にSLD議員からも協力する動きが出たことに対し、3月6日のSLD幹部会にて協力した下院議員のカリシュに対する3ヶ月間の党員資格停止処分が決定された[13]


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