民主党_(セルビア)
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セルビア民主党」とは異なります。

 セルビアの政党
民主党
Демократска странка (ДС)
Demokratska stranka (DS)

党首ドラガン・ジラス
名誉党首ボリス・タディッチ
副党首ボヤン・パイティッチ
創立1990年2月3日 (1990-02-03)
本部所在地 セルビア ベオグラード
青年部Demokratska omladina
党員・党友数196,673人 [1](2013年)
政治的思想

社会民主主義[2]
社会自由主義
第三の道[2]
親欧州主義
親欧米(セルビア語キリル・アルファベット: Александар Вучи?, pronounced 発音: [aleks??ndar ??t??it??], 1970年3月5日成立)
政治的立場中道[3] - 中道左派
国際連携社会主義インターナショナル
進歩同盟
欧州連携欧州社会党 (associate)
公式カラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  青(公式)
  黄色 (一般的)
国会13 / 250
ヴォイヴォディナ議会10 / 120
党旗

公式サイト
www.ds.org.rs
セルビアの政治
セルビアの政党一覧
セルビアの選挙

民主党(みんしゅとう、セルビア語: Демократска странка または Demokratska stranka、略称:ДС または DS)は、セルビア共和国政党社会民主主義を掲げる親EUの中道左派政党。
歴史
結成から第二次世界大戦まで

1919年にセルビア、クロアチアスロベニア自由主義者が合同してサラエヴォで創設。当初は セルビア・クロアチア・スロベニア民主国家党 という名称だった。ベオグラード市長のリュボミル・ダヴィドヴィッチを首相として輩出したが、内紛によって現在のセルビア、モンテネグロマケドニアに活動範囲が限定されてしまった。1929年国王アレクサンダル1世憲法を停止しユーゴスラビア王国を宣言すると下野した。

第二次世界大戦においては民主党の指導部はイギリス亡命していた。ユーゴスラビア国内に残ったメンバーにはナチス・ドイツはじめ枢軸国へのレジスタンス運動を展開したチェトニックパルチザンに加わる者もいた。しかし戦後ヨシップ・ブロズ・チトー率いる共産党ユーゴスラビアの政権を掌握すると、民主党は禁止された。
党の再建

1989年東欧革命の余波を受けてユーゴスラビアでも複数政党制導入の動きが強まるなかで、民主党も再建された。再結成に加わったメンバーは知識人が中心で、ゾラン・ジンジッチヴォイスラヴ・コシュトニツァがいた。1990年のセルビア共和国初の複数政党制に基づく議会選挙では、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチ率いる与党セルビア社会党に有利な小選挙区制のなかで民主党は250議席のうち7議席を獲得した。1992年の議会選挙でも6議席に留まった。その後、民族主義を強めていたコシュトニツァが離党し、新党・セルビア民主党を結成した。

比例代表制が導入された1993年の議会選挙では29議席に伸ばしたが、セルビア社会党、セルビア民主運動、セルビア急進党の後塵を拝した。翌1994年、ジンジッチが党首となった。
ジンジッチ党首時代

ジンジッチはユーゴスラビア紛争のあおりでセルビア国内で民族主義が高まるなか、民主党を維持し続けたが大きな勢力にすることはできなかった。1996年から1997年にかけて、権威主義的な傾向を強めていたミロシェヴィッチ政権に対する大規模な抗議行動が起こった後、ジンジッチが第二次世界大戦後初の非共産系のベオグラード市長となった。このときは政敵であったヴク・ドラシュコヴィッチのセルビア再生運動、ヴェスナ・ペシッチのセルビア市民同盟と連合を組んだが、内紛により4ヶ月で瓦解した。1997年の議会選挙はボイコットした。

1999年コソボ紛争においてNATOによるセルビアへの空爆が行われているなか、ジンジッチは避難のため一時モンテネグロへ逃れた。ジンジッチが当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンと握手する写真は、ジンジッチと民主党の親欧米的・国際的な穏健民主派としてのイメージを強くアピールするものだったが、国内の民族主義者からはジンジッチと民主党は売国奴だという批判を集めた。ジンジッチはセルビアに帰国後、国家の安全を損なったとして逮捕された。

2000年にミロシェヴィッチ政権が街頭デモにより打倒される(ブルドーザー革命)と、同年の議会選挙で民主党などによるセルビア民主野党連合が第1勢力として過半数の176議席を獲得(うち民主党は45議席)、ジンジッチがセルビアの首相となった。また、コシュトニツァがユーゴスラビア連邦の大統領となった。

2003年、ジンジッチ首相はベオグラードにて暗殺(英語版)された。

ジンジッチの暗殺を受けて、後任の党首となったのはボリス・タディッチだった。民主党はジンジッチ暗殺後の国民議会の選挙では37議席にとどまったが、タディッチは翌2004年の大統領選挙に勝利した。
現況

2007年には国民議会の選挙で大きく前進して64議席を獲得し、翌2008年の大統領選挙ではタディッチを再選させた。同年の議会選挙では親欧米派の中道右派政党であるG17プラスやセルビア再生運動、地域政党などと政党連合「ヨーロッパ・セルビアのために」を組んで議席をさらに伸ばし、連合全体で102議席を獲得した。選挙後、ミロシェヴィッチ亡き後のセルビア社会党らと福祉政策などで合意し連立政権を樹立した。その後2012年の総選挙で野党に転落した。


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