毛邦初
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毛邦初
『中國空軍抗戰史畫』(1947年)
生誕1904年3月5日
浙江省松江府上海県
死没 (1987-06-22) 1987年6月22日(80歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
所属組織中華民国空軍
最終階級空軍中将
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毛 邦初(もう ほうしょ、: Mow Pang Tzu、: 毛邦初1904年3月5日 - 1987年6月22日)は、中華民国空軍軍人。幼名は信誠、号は乾彪。日中戦争当時、周至柔黄秉衡陳慶雲黄光鋭とともに、空軍の全指揮権を握る航空委員の一人であり、戦中は空軍のナンバー2として米国からの支援を取り付けた立役者であったが、戦後に米国からの軍需品購入ルートの虚偽や資金着服が露見し、米台関係に大きな波紋を及ぼした。
経歴

スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(現モービル)社員・毛家来、母張氏[† 1]の長男として生まれる[2]。祖籍は浙江省奉化県岩溪村で、?経国の実母毛福梅[3]、毛景彪(中国語版)、毛懋卿(中国語版)とは同氏族[2]。上海租界で父の仕事を手伝っていたが、1924年冬、黄埔軍官学校三期生入伍生総隊に入る。翌年2月より第一次東征に参加。6月、劉震寰楊希閔の反乱部隊の鎮圧に参加。7月、第三期学生隊に正式入隊[4]。卒業後、中国交通科技学校にて無線通信専攻を経て広東航空学校第2期入学[5]、1926年12月卒業。モスクワ中山大学留学生に選抜され[4]、同国のボリソグレプスク(ロシア語版)の第2航空学校(現V・P・チカロフ名称ボリソグレプスク航空乗組員訓練航空センター(ロシア語版))にも留学した[6]。1929年5月、航空第1隊(隊長:高在田)飛行員[7]

1929年6月、中央陸軍軍官学校航空班飛行組長。他に張廷孟、石曼牛、張有谷ら9名が教官に就いたが、軍閥の反乱の度に駆り出され教練に支障をきたした。翌1930年春になると教練が軌道に乗り出し、楊鴻鼎、?正裕、王袖萍、張之珍、胡偉克(中国語版)、徐康良(中国語版)ら18名の学生が単独飛行可能となっていた[8]。そんな中、5月に中原大戦が勃発。航空班にも単独飛行可能な航空班学生を戦線に派遣せよとの特令が下され、学生18名で編成された偵察隊一隊の隊長となり河南の帰徳飛行場に赴く[9][10]。同年9月に復帰したが、この時参戦した学生と学校に留まりその間実技が出来なかった学生との間に確執が生まれ、それぞれ「擁毛派」「擁黄派」と呼ばれる派閥が生まれた[8]
空軍運営への参加

1931年4月、航空署長の張恵長(中国語版)が広州国民政府に離反したため、米国の視察に赴いていた黄秉衡が帰国するまで代理署長[11]。7月1日、航空班は軍政部航空学校に改称され校長に就任[11]。同時期に南昌で設立された航空指揮部の指揮官を兼任[11]

1933年7月17日中央航空学校改称に伴い、副校長。副校長は校長である?介石の代わりに運営及び教官の人事権を持っていたが、派閥の助長を防止するため人事権を弁公庁主任の?堅忍にも持たせ、相互に監視させるシステムがとられていた。しかし、藍衣社CC系と関わりがあった?堅忍は毛の身辺を探り、私生活の放蕩ぶりを密告[12]。毛は?介石より「貴官の行為は空軍建設の大計を妨害するものだ」との叱責を受ける[12]。立場を失った毛は1934年、中央航校2期生を引率してイタリアに視察に赴く。

1935年1月、中国航空公司総裁ウィリアム・パウレー(英語版)とともに米国のマイアミを訪れ[13][14]、そこで解散ショーを行っていたヘイウッド・ハンセル少尉、「ビリー」・マクドナルド軍曹、ジョン・ヘンリー・「ルーク」ウィリアムソン軍曹、そしてクレア・リー・シェンノート大尉のアクロバットチーム「フライング・トラピーズの三人男」に感銘を受ける。ショーの後、マクドナルドとウィリアムソンをクルーズ船に招待し、中国空軍の軍事顧問となる事を持ち掛けた[15]。最終的に米国当局の圧力で叶わなかったが、これがのちシェンノートが中国を訪れるきっかけとなる。

帰国後、南昌教導総隊長。1935年9月4日、空軍上校[16]。 1936年5月、任国民政府航空委員会常任委員。なお、この頃に仇敵・?堅忍の身辺を探り、「?堅忍の本当の姓は張であり、?介石の氏族を装って不当に取り入ろうとした」として告発している[12]

両広事変勃発後の1936年7月2日、南昌青雲譜飛行場総站長の崔滄石から広東空軍のパイロットが飛行機で投降して来たことを知らされると、?介石戴笠に状況を報告し、翌日、彼らを南京で?介石に接見させた[17]。12月、西安事件が起こった際には洛陽飛行場に派遣され、張学良の部隊に対する偵察・爆撃を指揮、状況を航空委員会に報告した[18]

シェンノートは、毛邦初を「一流のパイロットで好感の持てる仲間、空軍運営能力に優れている」と評し、一方で周至柔は「?介石に重用されている名目上の指揮官で、二の次」と評している[1]

1937年5月、教導総隊が空軍南昌第三軍区に改編されたことを受け、同司令。日中戦争勃発後の8月頭、江西省廬山の?嶺鎮(中国語版)にて?介石夫妻にシェンノートともに呼び出され、第1戦に投入可能な機数を91機と答えた[1][19]

8月14日、委員会制度では迅速な指揮が出せないことから前敵総指揮部が設立されると、副総指揮[20]。1938年3月、周至柔が宋美齢との政争に負け失脚すると前敵総指揮部は解体され[12]、周の後任で航空委員会軍令庁庁長となる[20]

1940年3月中旬、空軍第一路司令[21]。5月25日、空軍少将[22]。8月19日に航空委員会副主任兼任。

1940年11月、?介石の命を受け軍事顧問クレア・リー・シェンノートとともに特使として米国へ派遣され、ローチリン・キュリー、フランク・ノックスらを通して米国当局からの支援を取り付ける。

1941年3月26日、空軍総指揮部が設立され、総指揮。第1アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)の設立に協力[23]。同年4月、空軍参謀学校教育長兼任[24]

1942年、ワシントンに新設された国民政府航空委員会駐米代表として米国からの航空機調達を担う[25][26][27]。1年間で彼が購入と輸送に費やした予算は、5,000ドル(2015年現在の5億ドルに相当[28])に上った[29]。1944年10月、ダンバートン・オークス会議に出席[30]。1945年5月、国民党第六届中央執行委員会委員候補に選出。

戦後、連合国安全理事会軍事参謀団中国代表団成員。


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