毛皮貿易
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アルバータ州の毛皮貿易業者、1890年代ニジニ・ノヴゴロド州の毛皮貿易、1906年以前

毛皮貿易(けがわぼうえき、: Fur trade)は、動物の毛皮を獲得し販売する世界的な産業である。毛皮が暖を採りやすい素材として衣類に使われたことで、16世紀シベリアから産業として成長し、探検が進んだ北アメリカで発展した。19世紀前半に動物の乱獲のために絶滅が危惧される種が増えたこと、また衣類に対する嗜好の変化のために、今日、産業としては衰退している。
ロシアの毛皮貿易

アメリカ大陸の植民地化以前、ロシア西ヨーロッパアジアの一部に向けた毛皮、生皮の主要な供給者だった。毛皮は中世初期からまずバルト海黒海を通じて発展した貿易の中で、ロシアの主要輸出品だった。鉄道の発展と共にドイツライプツィヒのような都市を通じて貿易を行った。

当初ロシアではノヴゴロド共和国の商人がロシア北方や東方の民族と交易し、主としてテンビーバーオオカミキツネリスおよび野ウサギの生皮を手に入れ西欧へ輸出した。16世紀から18世紀に掛けて、ロシア人はコサックを先頭に、毛皮動物の産地であり多くの動物種が豊富な地域であるシベリアを目指してウラル山脈を越え、オビ川エニセイ川レナ川水系と大河を伝って太平洋北極海にまで進出した。ロシア帝国はシベリア全域を管理し、北極キツネ大山猫クロテンラッコおよびオコジョ(アーミン)を手に入れた。さらに珍重されるラッコ(その生皮は中国でまず使われた)や後にはキタオットセイを求めて、ロシア帝国は千島列島アリューシャン列島、北アメリカ、特にアラスカに進出し露米会社を設立した。17世紀から19世紀後半にかけては、ロシアが世界最大の毛皮供給国だった。毛皮貿易はシベリアの開発、ロシア領極東、さらにはアメリカ大陸の植民地化において重要な役割を果たした。この頃には、クロテンがウラル(英語版)のスヴェルドロフスク州、シペリアのノヴォシビルスク州チュメニ州およびイルクーツク州各州で地域の象徴となった。

ヨーロッパ人が北アメリカを発見し、その広大な森林と野生動物、特に豊富なビーバーの毛皮を手に入れたことで、17世紀には北アメリカがヨーロッパでの獣毛フェルトや毛皮縁飾りや衣類のために使われる生皮の主要供給元になった。毛皮は暖かい衣類を製造するための主要な産品であり、石炭が流通し暖房が普及する以前は特に重要だった。

ロシアでは毛皮は高級品として珍重され、国の専売品であった。一時期、国の収入の1/3を毛皮が占めたこともあった。
北アメリカの毛皮貿易「北アメリカの毛皮交易」も参照

北アメリカの毛皮貿易は新世界(北アメリカ)におけるヨーロッパ系アメリカ人とアメリカ合衆国先住民族およびカナダファースト・ネーションズとの間の接触の初期歴史の中心部分だった。1578年ニューファンドランド島にはヨーロッパの漁船350隻がいた。水夫達は先住民の着古した毛皮と金属製道具(特にナイフ)とを交換し始めた。

ビーバー・ローブはビーバーの生皮を先住民がなめし、縫い合わされた毛布だった。それらはフランス語で「カストール・グラ」英語で「コート・ビーバー」と呼ばれ、間もなくフェルト造りに特に有益だと、新たに発展したフェルト帽製造産業に認められるようになった。歴史家の中には「カストール・グラ」という言葉を説明しようとして、コート・ビーバーは長く着けていると人間の油分で富むようになり(帽子を使うと貴重な産毛に触れることで頭頂部の髪の大半がすり切れる)、それが帽子屋には魅力的だったと考える者がいた。これは、油分が羊毛のフェルト地を邪魔し、むしろ強化するので、ありそうにないように思われる。1580年までにビーバーの「ウール」はフランスのフェルト帽子屋にとって最初の主要材料になった。その後間もなくイングランドで帽子製造者が使うようになり、特にユグノーの避難民がフランスからその技能や好みを持ち込んでからは普及した。
初期の組織

ショーバン船長がヌーベルフランスで毛皮貿易を支配しようとして最初に組織的試みを行った。1599年、フランス王アンリ4世から独占権を取得し、サグネ川河口(ケベック州タドゥサック)に植民地を造ろうとした。フランス人探検家達(および材木商達、例えばエティエンヌ・ブルーレ、サミュエル・ド・シャンプラン、ピエール=エスプリ・ラディッソンおよびメダール・ド・グロセイユール、ラ・サール、ル・シュール)は大陸を抜ける道を探りながら、アメリンディアンとの関係を確立し、ヨーロッパ人には「普通」と考えられる物と生皮との交易を拡げ続けた。動物の冬の毛皮は暖かいと評判になり、特にビーバー・フェルト帽に使われるビーバーの生皮はヨーロッパで高級品の象徴になった。これらビーバー・フェルト帽に対する需要によって、ヨーロッパやヨーロッパ・ロシアにおけるビーバーは乱獲のためにほとんど絶滅近くなっていた。

1613年アンリ・クリスチャンセンとアドリアン・ブロックモホーク族モヒカン族との毛皮交易関係を確立するために遠征隊を起こした。1614年までにオランダ人は毛皮貿易から大きな経済報酬を確保するためにマンハッタンに船舶を派遣していた。

ラディッソンおよびグロセイユールは最初の大きくて無免許の毛皮取引を拒否されて苦い思いをし、1668年イギリスを貿易に引き込んだ。彼等はイングランドチャールズ2世の政府とマサチューセッツ湾植民地ボストンの事業家を説得し、北のヌーベルフランスという最良の毛皮の国で作られる多額の金があると報せた。ハドソン湾会社は毛皮貿易人の何人かを捕まえることから始めて、北アメリカでは最初の商業会社になると共に、世界で最大の貿易会社になった。

一方、イギリス領南部植民地では、チャールストンを積出港として鹿皮貿易が確立された。アメリカ先住民の社会では大いに欲しがられたヨーロッパ製商品と生皮を交換してくれるという噂が先住民狩人の間に広まった。斧頭、ナイフ、千枚通し、釣り鉤、様々な種類と色の衣類、毛織りの毛布、リンネルのシャツ、薬罐、宝石、ガラス玉、マスケット銃、弾薬が「生皮」1枚と取り引きされる主要商品だった。

南部植民地の交易基地では、交換用に多くの種類のアルコール(特にブランディとラム酒)も紹介された[1]。ヨーロッパの貿易業者が大陸に群がり集まり、交換で莫大な利益を上げた。例えば金属製斧頭1個が1枚のビーバー生皮(ビーバー・ブランケットとも呼ばれた)と交換された。同じ毛皮でイングランドでは数十の斧頭を買うことができ、毛皮貿易はヨーロッパ諸国にとって莫大な利益あるものになった。鉄の斧頭は先住民が辛苦して作っていた石斧に置き換わり、先住民もこの交易から少なからぬ利益を得た。
社会と経済の繋がり

毛皮貿易の政治的利点はしばしば経済面よりも重要になった。貿易は異なる文化の間で提携を固め、良い関係を維持する方法だった。北アメリカに赴く毛皮貿易業者は通常社会的にも財政的にも地位のある若い独身男性であり、結婚を外交的結びつきの手段として使ったので、ヨーロッパ人とファースト・ネーションズやアメリカ先住民族との間の結婚と姻戚関係はよくある話になった。貿易業者はしばしば高い階級にあるインディアンの女性と結婚あるいは同棲した。罠猟師や他の労働者は通常低い階級の女性と関係を持った。ヨーロッパ人と先住民との混血した子孫は独自の言語と文化を発展させ、カナダでは現在メティと呼ばれる少数民族集団として認められてきた。これらの集団は2階層の社会を形成した。毛皮貿易業者と酋長の子孫は社会や経済の集まりで傑出した存在になった。低層の子孫は狩猟、罠猟および農業に基づく別のメティ文化の大半を形成した。

毛皮貿易が生む利益のため、ヨーロッパ各国の現地政府は様々な先住民社会との交易の支配を賭けて互いに争った。アメリカ先住民族は戦争のときにどちらを支援するか決めるときに、どちらが正直に最良の交易品を供給してくれるかで判断した。貿易は政治的に重要だったので、悪用を避けることを期待して厳しく規制されることが多かった(しかし、しばしば無駄に終わった)。恥知らずな貿易業者は取引の間に先住民にせっせと酒を飲ませることで誤魔化すことがあった。これは結果として不満を生み、しばしば暴力事件になった。

アメリカ合衆国が独立した後は、1790年7月22日に最初に成立したインディアン交際法によって先住アメリカ人との交易が規制された。インディアン問題担当局はインディアン準州内での交易に免許を発行した。


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