凡例毛利 秀元
毛利秀元像(長府毛利家蔵、狩野探幽画)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正7年11月7日(1579年11月25日)
死没慶安3年閏10月3日(1650年11月26日)
改名穂井田宮松丸(幼名)→毛利宮松丸(幼名)→毛利秀元
別名尊称:羽柴安芸宰相
戒名智門寺功山玄誉大居士
墓所東京都港区泉岳寺
山口県下関市功山寺
山口県下関市豊功神社
毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門国長府藩の初代藩主。
正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。茶の湯を古田織部に学んだ茶人でもある。 天正7年(1579年)11月7日、毛利元就の四男・穂井田元清の次男として備中国猿掛城にて生まれる[1]。母は村上通康の娘・松渓妙寿
生涯
安土桃山時代
天正12年(1584年)、兄の宮鶴丸が12歳で病没したため元清の嫡男となる[2]。同年、実子のいなかった毛利輝元の養子となった[3]。
天正18年(1590年)に元服、右京大夫に任官し、のち甲斐守。天正20年(1592年)4月11日、肥前国名護屋城に向かう途中で広島城に立ち寄った豊臣秀吉と面会、輝元の継嗣と認められ[4]、豊臣姓・羽柴氏と偏諱の「秀」の字を与えられて[5]、秀元と名乗る。
天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、輝元とともに朝鮮に渡海。文禄2年(1593年)6月に宇喜多秀家や伯父の小早川隆景らと共に晋州城を攻略した(晋州城攻防戦)。
文禄4年(1595年)に輝元に松寿丸(後の秀就)が生まれると世嗣を辞退した。同年2月に秀吉の養女・大善院(豊臣秀長の娘)と結婚している。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、病気の輝元に代わって毛利軍3万を率いて右軍の総大将となり、従兄の吉川広家らと共に再度朝鮮に渡り、加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと共に朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた(黄石山城の戦い)後、全羅道、忠清道を平定。天安に陣していた時、稷山で黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)。
冬の到来を前に朝鮮の南岸地域に撤収して蔚山城の築城に加わっていたが、完成が目前となると、秀元は武器・兵糧を釜山に輸送し蔚山を引き払い帰国の準備をすすめていた。しかし秀元の去った後の蔚山城を明・朝鮮軍が攻撃、残留していた毛利軍の宍戸元続・桂孫六らが加藤清正らと共に食料備蓄のない籠城戦で窮地にたたされていたが、他の在鮮諸将と共にこれを救援し、明・朝鮮軍を大破した(蔚山城の戦い)。 慶長4年(1599年)6月、独立大名として別家を創設し、長門国(一円知行)・周防国吉敷郡、合計約18万石を分知された[6][注 1]。秀元は周防国の山口を本拠地に定め、高嶺城があまりにも急峻であることから長山城
独立
同年2月28日、博多の豪商神屋宗湛が、秀元、小早川秀包とともに古田織部の茶会に招かれた時、織部茶碗を見てその斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記した(『宗湛日記』)。
関ヶ原の戦い南宮山頂にある関ヶ原の戦いの毛利秀元陣跡(岐阜県不破郡垂井町)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時、毛利家の運営は秀元および後見役の恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利輝元が西軍の総大将となった時に、秀元は毛利氏の先手勢として大坂城に討ち入って徳川勢を追い払ったので、実際に関ヶ原へ赴いたのは秀元らの3人であった。
広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。