凡例毛利 治親
毛利治親像(毛利報公会
毛利 治親(もうり はるちか)は、江戸時代後期の大名。毛利氏22代当主。長州藩8代藩主。7代藩主・毛利重就の四男[1]で嫡出子。 宝暦4年(1754年)6月15日、江戸で生まれる[1]。四男だったが正室の子で[1]、かつ重就が養嗣子にしていた重広(従兄にあたる)や実兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、10代将軍・徳川家治から偏諱を受けて、初名の徳元(のりもと)から治元(はるなが)に改名した(後に治親と改名)。 薩摩藩の「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では天明元年(1781年)生まれの奥平昌高が治広(松平大膳大夫治元)の養子になっていたとしている。 天明2年(1782年)8月28日、父・重就の隠居により跡を継ぐが[1]、寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全くなく、また父の死からわずか2年後の寛政3年(1791年)6月12日に江戸で死去したため[1]、治績などはほとんどない影の薄い藩主であった。享年38[1]。跡を長男の斉房が継いだ。
生涯